龍潭
(Ryutan Pound)
龍潭は、1427年に築かれた池です。
首里城の北側の一段低いところに掘られ、
首里城から湧き出た水は円鑑池を経て
龍潭に流れ込むようになっているようです。
首里城の様子はこちらです。
この龍潭は国相懐機が中国に赴いて造園技術を学び
この龍潭を築いた伝えられているそうです。
当時も今と同じように、庶民が
くつろぐ場所だったようです。
またこの龍潭では、中国皇帝の使者・冊封使を
歓待する為に舟遊びも催されたそうです。
この龍潭は、バスの車窓から眺めただけなので
首里城を再訪した際には、ここにも
立ち寄ってみようと思います。
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玉陵
(たまうどぅん)
(Tamaudoun)
首里城を巡り、守礼門をくぐって
首里城公園を後にしました。
首里城の様子はこちらです。
首里城から守礼門への道をまっすぐ進むと、
左手に玉陵がありました。
玉陵は、1470年にクーデターが起こし、
第二尚氏王朝の祖となった尚円王を
その子・尚真王が築いた陵墓です。
この玉陵も、第二次大戦の沖縄戦で
大きな被害を受けたそうですが、
1974年から3年間の修復工事が行われ
当時の姿が蘇ったそうです。
首里城からの道を折れ、
玉陵奉円館で入場料を払い、
玉陵に向かいます。
どこかのんびりとした風景で、
立派な史跡に向かうという雰囲気はなく、
また那覇の市街地にいるという
実感も沸いて来ませんでした。
この先で左に折れ、
木々が鬱蒼と茂っている中を
陵墓に向かいました。
この木々を抜けると、
立派な石垣が現れました。
いきなり強い日差しが降り注ぎ
先ほどまでののどかな光景から一変し
厳かな雰囲気が伝わってきます。
石垣の先には赤い屋根の
東の御番所が建っていました。
ここは法事の際に、国王の控所として
使用されていたそうです。
2000年(平成12年)に発掘調査が行われ、
第二次大戦当時よりも規模の大きな遺構が発見され
その結果や戦前の写真などを元に復元されたそうです。
玉陵の西側にも番所があったそうなので
来た道を戻り、その跡に行ってみました。
この西の番所は、女性方の控所として
使われていたそうです。
ここは第二次大戦前には
番所の建物が残っていたそうですが
2000年の発掘調査で、その遺構を
みつける事が出来なかったので復元されずに、
こうして跡地だけが残っているそうです。
石垣の真ん中には石門があり、
ここから玉陵の中に入っていきました。
石門を抜けたところは前庭の様になっていて
その奥に、更に石垣が築かれています。
内側の石垣の背は低く、
その向こう側の陵墓がよく見えています。
二つ目の石垣の手前に
王陵碑が立てられていました。
1501年に建てられたこの碑は
玉陵に祀られるべき人を
規定しているそうです。
二つ目の石垣の門を抜けると石造りの
玉陵の陵墓が間近に見えてきました。
向かって左のお墓には洗骨後の王と王妃が葬られ、
中央の室では洗骨前の遺骸が安置されていたそうです。
そして右側の室では限られた家族が葬られているそうです。
左手の王と王妃が葬られているお墓の建物の上には
魔除けのシーザーが載っていました。
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識名園
(Shikina En)
識名園は、琉球王国最大の別邸だったところです。
作られたのは1798年の事だったそうです。
落成して2年後の1800年に、冊封使・趙文楷、
副使・李鼎元を招いています。
識名園は池の周りを巡る「廻遊式庭園」です。
廻遊式庭園は、江戸時代の大名屋敷の
庭園に多く見られる様式ですが、
中国式の六角堂やアーチ橋を配し
琉球独自の様式となっているようです。
識名園の敷地は41,997平米にも及んでいます。
第二次大戦によって壊滅的な被害を受けた
識名園ですが、1975年(昭和50年)から
復元整備が進められ、20年の歳月を費やし、
往時の姿が再現されたそうです。
2000年12月には世界遺産にも指定された
識名園ですが、訪れた際には、観光客が
三々五々いる程度で、落ち着いた雰囲気でした。
入場券を買い、園内に入ると、
まずは番屋にたどり着きました。
この番屋から、木々が生い茂る
散策路を歩いて行きます。
と、通用門に出ました。
通用門といっても屋根があり、
門の両脇は石垣で固められていました。
通用門からさらに木々の
間の通路を歩いて行きます。
何本もの幹が絡み合うようにして
一本の木を成しているような
不思議な木も見かけました。
深い樹木を抜けると正門です。
この門は国王一家や、冊封使が出入りした門で
この正門も屋根のある「ヤージョウ(屋門)」と
呼ばれる格式のある門です。
正門からまっすぐ伸びる道を
緩やかな勾配を下っていくと池が見え、
この池の辺で左に折れると石畳の
道の向こうに石垣が見えてきました。
石垣は琉球石灰岩を用い、琉球独特の
「あいかた積み」という石組みだそうで、
育徳泉という識名園の水源の泉がありました。
育徳泉には二つの碑も建てられていました。
向かって右の碑は1800年に、左手の碑は1838年に、
いずれも冊封使によって建てられたそうです。
この育徳泉から奥に進むと、急に視界が開け
赤い屋根の御殿(うどぅん)が見えてきました。
御殿の総面積は525平米あるそうで、
冊封使を迎えた一番座をはじめ
全部で15の部屋があるそうです。
造りは格式が高いものの開放的な造りで、
芝生の庭越しに池が眺められる
広々とした空間がそこにはありました。
この眺めはなんとも言えない眺めで
時も空間も超越しているかの様でした。
御殿でしばし庭を眺めた後に池の周りを散策してきました。
石橋を渡って、池の対岸から御殿を眺めてみました。
赤い瓦屋根の御殿が景色に溶け込んでいるようです。
そして、池にはアーチ状の石橋が架かる小島に
六角堂が建てられていました。
池の真ん中に架けられた石橋です。
アーチ状の中国風デザインということです。
石橋の近くにある滝口です。
この懸樋から池の水を流し、
水位を調節する為のものだったそうです。
当時はここに東屋があって、
夏の涼をとっていたようです。
そして池の端には舟揚場もありました。
当時は、この池に船を浮かべて
愉しんでいたそうです。
池の辺から、順路に従って識名園の
一番奥にある勧耕台に向かいました。
この勧耕台からの眺めは沖縄本島南部を
見渡せる広々とした景色が楽しめました。
冊封使に琉球も広いと思わせるために
海の見えないこの地に展望台を築いたと
言われています。
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金城町の石畳道
(Stone Covered Streets in Kinjyo)
首里城の南に広がる金城町に
琉球王国時代の石畳道が残っています。
首里城から南西に続く道で、1477年から1526年の
琉球王・尚真王の時代に整備されたそうです。
第二次大戦で破壊され、今では僅かに
300m程の区間が残されているそうです。
玉陵を訪れた後に、
金城町の石畳道に行ってきました。
玉陵の様子はこちらです。
玉陵の西側の道を通り、
金城町に向かいます。
両脇を石垣で囲われた狭い、
昔ながらの路地が続いています。
首里城から続く、玉陵の南側の丘陵の
尾根を越えると、那覇の街を一望出来ました。
バスの走る赤マンソウ通りを東に向かうと
石畳の道にたどり着きました。
この石畳の道も細く、
そして急な坂道になっています。
昔ながらの赤い瓦の家もあり、
何十年も昔の那覇の街並みに
足を踏み入れたような雰囲気を感じました。
琉球の国王が、沖縄の南部に
御幸の際にはこの石畳の道を辿ったそうですが
通りの雰囲気は、庶民的なものを感じました。
この石畳の道は、日本の道百選にも選ばれたそうです。
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