太宰府は、福岡から南東に15km程離れた所に位置しています。
大宰府(太宰府)は、大和朝廷が、西国統治や外交や
609年(推古天皇17年)に初めてその名が記されて
901年(昌泰4年)には右大臣だった菅原道真が大宰府に左遷され、
大和朝廷の出先機関としては"大宰府"を、この
この太宰府には、由緒ある太宰府天満宮、そして
当時はこの都府楼の周辺に、奈良の都の
太宰府天満宮は福岡市から西鉄天神大牟田線と
西鉄太宰府駅から太宰府天満宮を目指しました。
参道には幾つか鳥居が立ち、両側には土産物屋や、
参道を歩きだして、3つ目の鳥居が現れました。
この鳥居の手前で、土産物屋は無くなり、
2020年2月初旬に訪れた際には既に梅が咲いていました。
ここは安楽寺天満宮留守別当大鳥居の宿坊で、
幕末には、尊王攘夷派の三条実美らの五卿が
ここで参道は左に折れます。
案内版によると、この鳥居は今からおよそ700年前の
この先に太鼓橋がありました。
この太鼓橋は、"心"の字を描く池に掛かり、
手前が今王社で、その奥に志賀社があります。
今王社は謂れが分かっていない不思議な神社です。
志賀社は国の重要文化財に指定されています。
この先に、鳥居の奥に赤い楼門が見えて来ました。
太宰府天満宮は、菅原道真を祀った神社です。
驚く事に太宰府に来て僅か2年後の903年(延喜3年)に
楼門の朱塗りが映えて鮮やかです。
楼門を抜けると、重要文化財の本殿です。
"東風吹かば にほひおこせよ 梅の花
「飛梅」伝説は、道真が京都を去るにあたりこの歌を読んだ時、
太宰府天満宮の本殿も、鮮やかに彩られていました。
この太宰府天満宮が平安時代に創建されて以来、
次の目的地は、都府楼と呼ばれる太宰府政庁跡です。
まずは光明禅寺です。
太宰府天満宮から目と鼻の先にあるお寺ですが、
鎌倉時代に建立されたというお寺ですが、
しっとりとした苔が見事で、
光明禅寺を出て向かったのは、観世音寺です。
最盛期には多くの伽藍を有し、
今は講堂と金堂が残るのみですが、寺の周囲には
この観世音寺には、日本最古の梵鐘があります。
この観世音寺の隣には、戒壇院があります。
以前は観世音寺の伽藍の1つだったそうですが
僧になるための戒律を授けることが出来た
この戒壇院では、門の脇の大きな楠が印象的でした。
この観世音寺や戒壇院の辺りは、
戒壇院から、大宰府政庁跡に向かいます。
戒壇院を出ると、長閑な景色が広がりました。
ここは大宰府大学院跡で、西街道諸国の
その先に月山東地区官衙がありました。
大宰府政庁の周囲には18か所の官衙(役所)が
ここには、どんな役所かは不明ですが、9棟の
月山東地区官衙の先に、大宰府政庁跡の広い
この石段の先が大宰府政庁跡になります。
大宰府政庁は、7世紀末に置かれた大和朝廷の地方行政府です。
やがて、広々とした太宰府政庁跡が現れてきました。
岩尾山の背後にある四王寺山には664年(天智天皇3年)に、
大宰府政庁は、7世紀後半から8世紀初頭の第一期、
第二期の政庁で、その大きさは
南北に、南大門、中門そして正殿、後殿が並び、
上左の写真は南大門、上右は中門から撮ったものです。
中門跡から50m以上も離れた所に正殿跡があります。
正殿は大宰府の長官の"師(そち)"が政務を執り、
石碑には唐名の"都督府古址"と記されていました。
下の写真は、後殿の礎石群です。
当時の栄華は偲ぶ由もありませんでしたが、
岩尾山を抱き、南に開けたこの土地は、
後殿の背後は、一段低くなっており、
この先に歌碑がありました。
"正月立ち 春来たらば かくしこそ
歌碑には詠み人は「大弐 紀卿」と記されていますが
730年(天平2年)1月13日、当時大宰府に赴任していた
奈良時代以前の大和朝廷が重要な政府の拠点として政庁を
太宰府界隈
Dazaihu, Fukuoka
軍事力を行使する際の出先機関として設けられたものです。
いますが、6世紀にも、この前身となる施設が
置かれたと考えられるそうです。
903年(延喜3年)に亡くなると、道真の祟りが生じます。
これを鎮める為に919年(延喜19年)に、道真の墓所の上に
社殿が造営され、今の太宰府天満宮となります。
地域や天満宮には"太宰府"の字が使われています。
歴史の薫り豊かなこの地は、何度か訪れています。
古刹と遠の都があり、古の日本を想う事が出来る、
心の故郷という感じがしました。
1/3程の規模の都が築かれていたそうです。
観世音寺・戒壇院
(Kanzeonji and Dankaiin Temple)
Aug. 13, '05
大宰府政庁跡(都府楼跡)
(Ruins of Dazaifu Government)
Revised! Nov. 09, '20
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太宰府天満宮
(Dazaifu Tenmangu Shrine)
太宰府線を乗り継いで30分程の所にあります。
撮影: 2020年2月
駅前から参道が続いています。
撮影: 2020年2月
名物の梅が枝餅を売るお店などが続いています。
撮影: 2020年2月
撮影: 2020年2月
燈籠などが立ち、神社の雰囲気が漂います。
撮影: 2020年2月
鳥居の先には立派な門と築地塀が見えていました。
撮影: 2020年2月
延壽王院と呼ばれ、1754年(宝暦4年)に
桃園天皇によって命名されたそうです。
京を追われた為に、ここに滞在したそうです。
その先にも鳥居がありました。
撮影: 2020年2月
南北朝時代に建立され、九州では最古という事です。
筑後有坂城(久留米市田主丸)の城主・新田大炊介
が寄進したと記されています。
鳥居と太鼓橋の間に、御神牛の像があった
筈ですが、見逃してしまったようです。
撮影: 2020年2月
橋を渡り終えると、末社が二つありました。
撮影: 2020年2月
志賀社は、1458年(長禄2年)に建立されたものです。
当時は黒漆喰や金製の金具が使われた立派な
建物だったそうです。
菅原道真は右大臣まで上りつめましたが、901年
(昌泰4年)に大宰府政庁に左遷になったそうです。
左遷というよりも配流に近い扱いだったようす。
亡くなりますが、道真の死後、色々な祟りが生じ、
919年(延喜9年)に道真の墓所に、道真を祀る
安楽寺天満宮が建てられました。
撮影: 2020年2月
桧皮葺きの本殿の脇に、「飛梅」伝説で
知られる梅の木がありました。
撮影: 2020年2月
あるじなきとて 春な忘れそ"
道真の邸宅にあった梅が道真を慕い、京都から一夜で
この太宰府の地に辿り着いたというもので、
本殿脇の梅の木がこの伝説の梅ということです。
この本殿は国の重要文化財に指定されています。
撮影: 2020年2月
明治に至るまで安楽寺天満宮という名前でした。
光明禅寺
(Komyuo-Zenji Temple)
太宰府天満宮の界隈には、光明禅寺、観世音寺、
そして戒壇院と古いお寺が点在しているので、
これらの古寺を巡りながら都府楼に向かいました。
多くの人で賑わっていた太宰府天満宮とは
うってかわって、ひっそりとしています。
撮影: 2005年8月
ここは、庭園がとても美しいお寺です。
撮影: 2005年8月
静かな境内にいるとまるで京都の
古寺にいるような錯覚を覚えます。
観世音寺と戒壇院
(Kanzeonji & Dankaiin Temple)
746年(天平18年)に建立された大寺で、崩御された
斉明天皇の御冥福を祈るために建てられたそうです。
撮影: 2005年8月
西の東大寺とよばれた大寺です。
礎石の跡が残り、楠の大木が何本もある
広い境内からは古の寺の様子がしのばれます。
撮影: 2005年8月
京都の妙心寺の梵鐘と同時に造られたそうです。
撮影: 2020年2月
今は、禅宗のお寺になっているようです。
撮影: 2005年8月
日本で3ヶ所の戒壇院の1つだそうです。
撮影: 2005年8月
撮影: 2005年8月
奈良の法隆寺や薬師寺界隈の雰囲気に
よく似ているような気がしました。
大宰府政庁跡(都府楼跡)
(Ruins of Dazaifu Government)
都府楼跡は、戒壇院から500mほどのところです。
撮影: 2020年2月
郡司の子弟がここで教育を受け、
官人としての養成されていたそうです。
撮影: 2020年2月
7つの地区に分けられて建っていたそうです。
掘立建物が建てられていた跡があったそうで、
その一部の柱跡が復元されています。
入り口があり、ここを進むと低い石段が現れました。
撮影: 2020年2月
大宰府以外にも吉備や周防、伊予などにも置かれたそうですが、
701年(大宝元年)に制定された大宝律令では、九州の大宰府
のみが政府機関として認められ他は廃止されています。
岩尾山を背景に、太宰府政庁跡が広がっています。
大宰府政庁を守る為に大規模な大野城が築かれています。
撮影: 2020年2月
8世紀初頭から10世紀半ばの第二期、そして
10世紀半ば以降の第三期に分かれるようです。
南北約211m、東西111mだったようです。
中門と正殿を通るように廻廊が巡らされていました。
また下の写真は廻廊の内側にあった東脇殿です。
撮影: 2020年2月
今は、ここに石碑が3つ立っていました。
撮影: 2020年2月
儀式などを執り行った場所です。
撮影: 2020年2月
今、当時の様子を伝えるものは礎石だけです。
撮影: 2020年2月
”まほろば”という言葉がふいに浮かんできました。
当時の人々にとっては、奈良の都を
思い起こさせる何かがあったんでしょうか。
湿地帯の様になっていました。
当時は堀があったのでしょうか。
撮影: 2020年2月
撮影: 2020年2月
梅を招きつつ 楽しき終へめ"
大弐は役職名で、紀朝臣男人
大伴旅人
詠まれた歌だそうです。
築いた大宰府ですが、平安時代にもなると長官である
大宰帥に任命された親王が赴任しない事が続き、
平安時代末期には田畑に還っていたそうです。