太宰府界隈
Dazaihu, Fukuoka

太宰府は、福岡から南東に15km程離れた所に位置しています。

大宰府(太宰府)は、大和朝廷が、西国統治や外交や
軍事力を行使する際の出先機関として設けられたものです。

609年(推古天皇17年)に初めてその名が記されて
いますが、6世紀にも、この前身となる施設が
置かれたと考えられるそうです。

901年(昌泰4年)には右大臣だった菅原道真が大宰府に左遷され、
903年(延喜3年)に亡くなると、道真の祟りが生じます。
これを鎮める為に919年(延喜19年)に、道真の墓所の上に
社殿が造営され、今の太宰府天満宮となります。

大和朝廷の出先機関としては"大宰府"を、この
地域や天満宮には"太宰府"の字が使われています。
歴史の薫り豊かなこの地は、何度か訪れています。

この太宰府には、由緒ある太宰府天満宮、そして
古刹と遠の都があり、古の日本を想う事が出来る、
心の故郷という感じがしました。

当時はこの都府楼の周辺に、奈良の都の
1/3程の規模の都が築かれていたそうです。

太宰府天満宮
(Dazaifu Tenmangu Shrine)
Oct. 31, '20

光明禅寺
(Komyuo-Zenji Temple)
Aug. 13, '05

観世音寺・戒壇院
(Kanzeonji and Dankaiin Temple)
Aug. 13, '05

大宰府政庁跡(都府楼跡)
(Ruins of Dazaifu Government)
Revised! Nov. 09, '20

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太宰府天満宮
(Dazaifu Tenmangu Shrine)

太宰府天満宮は福岡市から西鉄天神大牟田線と
太宰府線を乗り継いで30分程の所にあります。


撮影: 2020年2月

西鉄太宰府駅から太宰府天満宮を目指しました。
駅前から参道が続いています。


撮影: 2020年2月

参道には幾つか鳥居が立ち、両側には土産物屋や、
名物の梅が枝餅を売るお店などが続いています。


撮影: 2020年2月

参道を歩きだして、3つ目の鳥居が現れました。


撮影: 2020年2月

この鳥居の手前で、土産物屋は無くなり、
燈籠などが立ち、神社の雰囲気が漂います。


撮影: 2020年2月

2020年2月初旬に訪れた際には既に梅が咲いていました。
鳥居の先には立派な門と築地塀が見えていました。


撮影: 2020年2月

ここは安楽寺天満宮留守別当大鳥居の宿坊で、
延壽王院と呼ばれ、1754年(宝暦4年)に
桃園天皇によって命名されたそうです。

幕末には、尊王攘夷派の三条実美らの五卿が
京を追われた為に、ここに滞在したそうです。

ここで参道は左に折れます。
その先にも鳥居がありました。


撮影: 2020年2月

案内版によると、この鳥居は今からおよそ700年前の
南北朝時代に建立され、九州では最古という事です。
筑後有坂城(久留米市田主丸)の城主・新田大炊介
が寄進したと記されています。

この先に太鼓橋がありました。
鳥居と太鼓橋の間に、御神牛の像があった
筈ですが、見逃してしまったようです。


撮影: 2020年2月

この太鼓橋は、"心"の字を描く池に掛かり、
橋を渡り終えると、末社が二つありました。

手前が今王社で、その奥に志賀社があります。


撮影: 2020年2月

今王社は謂れが分かっていない不思議な神社です。
志賀社は、1458年(長禄2年)に建立されたものです。
当時は黒漆喰や金製の金具が使われた立派な
建物だったそうです。

志賀社は国の重要文化財に指定されています。

この先に、鳥居の奥に赤い楼門が見えて来ました。

太宰府天満宮は、菅原道真を祀った神社です。
菅原道真は右大臣まで上りつめましたが、901年
(昌泰4年)に大宰府政庁に左遷になったそうです。
左遷というよりも配流に近い扱いだったようす。

驚く事に太宰府に来て僅か2年後の903年(延喜3年)に
亡くなりますが、道真の死後、色々な祟りが生じ、
919年(延喜9年)に道真の墓所に、道真を祀る
安楽寺天満宮が建てられました。

楼門の朱塗りが映えて鮮やかです。


撮影: 2020年2月

楼門を抜けると、重要文化財の本殿です。
桧皮葺きの本殿の脇に、「飛梅」伝説で
知られる梅の木がありました。


撮影: 2020年2月

"東風吹かば にほひおこせよ 梅の花
あるじなきとて 春な忘れそ"

「飛梅」伝説は、道真が京都を去るにあたりこの歌を読んだ時、
道真の邸宅にあった梅が道真を慕い、京都から一夜で
この太宰府の地に辿り着いたというもので、
本殿脇の梅の木がこの伝説の梅ということです。

太宰府天満宮の本殿も、鮮やかに彩られていました。
この本殿は国の重要文化財に指定されています。


撮影: 2020年2月

この太宰府天満宮が平安時代に創建されて以来、
明治に至るまで安楽寺天満宮という名前でした。

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光明禅寺
(Komyuo-Zenji Temple)

次の目的地は、都府楼と呼ばれる太宰府政庁跡です。
太宰府天満宮の界隈には、光明禅寺、観世音寺、
そして戒壇院と古いお寺が点在しているので、
これらの古寺を巡りながら都府楼に向かいました。

まずは光明禅寺です。

太宰府天満宮から目と鼻の先にあるお寺ですが、
多くの人で賑わっていた太宰府天満宮とは
うってかわって、ひっそりとしています。


撮影: 2005年8月

鎌倉時代に建立されたというお寺ですが、
ここは、庭園がとても美しいお寺です。


撮影: 2005年8月

しっとりとした苔が見事で、
静かな境内にいるとまるで京都の
古寺にいるような錯覚を覚えます。

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観世音寺と戒壇院
(Kanzeonji & Dankaiin Temple)

光明禅寺を出て向かったのは、観世音寺です。
746年(天平18年)に建立された大寺で、崩御された
斉明天皇の御冥福を祈るために建てられたそうです。


撮影: 2005年8月

最盛期には多くの伽藍を有し、
西の東大寺とよばれた大寺です。

今は講堂と金堂が残るのみですが、寺の周囲には
礎石の跡が残り、楠の大木が何本もある
広い境内からは古の寺の様子がしのばれます。


撮影: 2005年8月

この観世音寺には、日本最古の梵鐘があります。
京都の妙心寺の梵鐘と同時に造られたそうです。

この観世音寺の隣には、戒壇院があります。


撮影: 2020年2月

以前は観世音寺の伽藍の1つだったそうですが
今は、禅宗のお寺になっているようです。


撮影: 2005年8月

僧になるための戒律を授けることが出来た
日本で3ヶ所の戒壇院の1つだそうです。


撮影: 2005年8月

この戒壇院では、門の脇の大きな楠が印象的でした。


撮影: 2005年8月

この観世音寺や戒壇院の辺りは、
奈良の法隆寺や薬師寺界隈の雰囲気に
よく似ているような気がしました。

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大宰府政庁跡(都府楼跡)
(Ruins of Dazaifu Government)

戒壇院から、大宰府政庁跡に向かいます。
都府楼跡は、戒壇院から500mほどのところです。

戒壇院を出ると、長閑な景色が広がりました。


撮影: 2020年2月

ここは大宰府大学院跡で、西街道諸国の
郡司の子弟がここで教育を受け、
官人としての養成されていたそうです。

その先に月山東地区官衙がありました。


撮影: 2020年2月

大宰府政庁の周囲には18か所の官衙(役所)が
7つの地区に分けられて建っていたそうです。

ここには、どんな役所かは不明ですが、9棟の
掘立建物が建てられていた跡があったそうで、
その一部の柱跡が復元されています。

月山東地区官衙の先に、大宰府政庁跡の広い
入り口があり、ここを進むと低い石段が現れました。


撮影: 2020年2月

この石段の先が大宰府政庁跡になります。

大宰府政庁は、7世紀末に置かれた大和朝廷の地方行政府です。
大宰府以外にも吉備や周防、伊予などにも置かれたそうですが、
701年(大宝元年)に制定された大宝律令では、九州の大宰府
のみが政府機関として認められ他は廃止されています。

やがて、広々とした太宰府政庁跡が現れてきました。
岩尾山を背景に、太宰府政庁跡が広がっています。

岩尾山の背後にある四王寺山には664年(天智天皇3年)に、
大宰府政庁を守る為に大規模な大野城が築かれています。


撮影: 2020年2月

大宰府政庁は、7世紀後半から8世紀初頭の第一期、
8世紀初頭から10世紀半ばの第二期、そして
10世紀半ば以降の第三期に分かれるようです。

第二期の政庁で、その大きさは
南北約211m、東西111mだったようです。

南北に、南大門、中門そして正殿、後殿が並び、
中門と正殿を通るように廻廊が巡らされていました。

上左の写真は南大門、上右は中門から撮ったものです。
また下の写真は廻廊の内側にあった東脇殿です。


撮影: 2020年2月

中門跡から50m以上も離れた所に正殿跡があります。
今は、ここに石碑が3つ立っていました。


撮影: 2020年2月

正殿は大宰府の長官の"師(そち)"が政務を執り、
儀式などを執り行った場所です。

石碑には唐名の"都督府古址"と記されていました。


撮影: 2020年2月

下の写真は、後殿の礎石群です。
今、当時の様子を伝えるものは礎石だけです。


撮影: 2020年2月

当時の栄華は偲ぶ由もありませんでしたが、
”まほろば”という言葉がふいに浮かんできました。

岩尾山を抱き、南に開けたこの土地は、
当時の人々にとっては、奈良の都を
思い起こさせる何かがあったんでしょうか。

後殿の背後は、一段低くなっており、
湿地帯の様になっていました。
当時は堀があったのでしょうか。


撮影: 2020年2月

この先に歌碑がありました。


撮影: 2020年2月

"正月立ち 春来たらば かくしこそ
梅を招きつつ 楽しき終へめ"

歌碑には詠み人は「大弐 紀卿」と記されていますが
大弐は役職名で、紀朝臣男人
(682-738) が作者のようです。

730年(天平2年)1月13日、当時大宰府に赴任していた
大伴旅人
(665-731) の館で開かれた梅花の宴で
詠まれた歌だそうです。

奈良時代以前の大和朝廷が重要な政府の拠点として政庁を
築いた大宰府ですが、平安時代にもなると長官である
大宰帥に任命された親王が赴任しない事が続き、
平安時代末期には田畑に還っていたそうです。

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