東京 / 雑司が谷〜巣鴨界隈
Zoushigaya & Sugamo in Tokyo
荒川区の三ノ輪橋と新宿・豊島・文京区の3つの区の
境に近い早稲田とを結ぶ都電荒川線に乗車した際、
豊島区の東端の辺りで何度か途中下車し
沿線の鬼子母神と庚申塚を訪れました。
都電「荒川線」の乗車記はこちらです。
鬼子母神
面影橋から北に向かい勾配を
上りきった辺りが鬼子母神前の停留所です。
この辺りは住宅街が続き、都電の停留所の近くに
昔ながらの商店街が続いていてるようです。
この「鬼子母神」という地名に
惹かれてここで途中下車しました。
もちろん、雑司が谷の鬼子母神堂に向かいました。
停留所を出て左に折れると、
鬼子母神と書かれた小道が続いていました。
小道の両脇には古いケヤキの並木が続いています。
このケヤキは鬼子母神への奉納の為、1573年〜1591年の
天正年間に雑司ケ谷村の長島内匠が植え付けたそうです。
樹齢約400年のケヤキ並木です。
江戸時代末期の1844年(弘化元年)には
江戸城本丸普請の為に伐採しようとした役人に対し、
鬼子母神の寺が伐採中止を訴えたそうです。
このケヤキ並木の先に鬼子母神がありました。
鬼子母神は、インドで訶梨帝母(カリテイモ)という、凶暴な
性格の女性で、近くの子供達を襲って食べていたそうです。
お釈迦さまが一計を図り訶梨帝母の子供を
隠してしまうと訶梨帝母は嘆き悲しんだそうです。
そこで、お釈迦さまが訶梨帝母の日頃の行いを戒めると、
訶梨帝母はその後安産・子育ての神になったそうです。
境内に入ると、大きな公孫樹の木が目に留まりました。
樹齢600年と言われる大きな公孫樹で
東京都の天然記念物に指定されているようです。
その公孫樹の先には武芳稲荷堂という神社がありました。
赤い鳥居が並んでいる様子に惹かれます。
この稲荷堂の先に鬼子母神を祀る
堂々とした本殿がありました。
この鬼子母神堂の謂れは、
清土(文京区目白台)で掘り出された
鬼子母神のご尊像が信仰を集めた為、
1578年(天正6年)に、この地にも
堂宇を建て今日に至っているという事です。
境内に鬼子母神像もあったようですが、
それは見逃してしまいました。
巣鴨庚申塚
鬼子母神堂を訪れた後、再び都電に乗り、
次に訪れたのは庚申塚です。
停留所を降りた所の道は、
なんと旧中仙道だったそうです。
この道を東に行くと巣鴨地蔵通り商店街です。
江戸時代、この辺りは中仙道の最初の宿
板橋の途中にあり、「巣鴨庚申塚」の立て場、
今で言う休憩所として賑わっていたそうです。
庚申塚はこの地蔵通り商店街の入り口にありました。
庚申塚は昔は広く普及していた庚申講に関連しています。
道教の伝説に基づく思想で、人間の頭、腹そして足には
三尸(さんし)の虫がおり、庚申の日の夜に日頃の行いの
報告をしに天に昇ると言われているそうです。
報告によっては寿命が縮まってしまうので、
村中の人が集まり神々を祀りながら夜を明かすという
寄り合い(これを庚申講というそうです)を行い、
この庚申講を3年続けた記念に建てられたのが庚申塔です。
その庚申塔を中心に土を盛った塚が庚申塚という訳です。
庚申塔は江戸時代には各地にあったようです。
巣鴨庚申塔は猿田彦神社の小さな祠に祀られていました。
巣鴨の庚申塔は江戸時代の古老の言い伝えでは
1502年(文亀2)年に作られたそうですが、
1657年(明暦 3 年)の明暦大火でこの碑が壊れ、
この年に造り直したとされているようです。
雨の中庚申塔を収めた祠は
訪れる人もなくひっそりとしていました。
巣鴨地蔵通商店街を更に東に行くと
とげぬき地蔵で有名な高岩寺があるのですが、
時間の関係で、またの機会訪れる事にしました。