東京 / 目黒界隈
Meguro Area in Tokyo

目黒は東京都の西部にあり、東京特別区の一つです。
山手線に目黒駅があり、目黒区は目黒駅を中心として
広がっているように思ってしまいますが、地図で確認すると
目黒駅の西側に南北に広がり、西の端は東急東横線の
学芸大学、南は自由が丘駅辺りまで広がっています。

山手線の目黒駅は、目黒区になく品川区にあります。

このページでは、目黒区や目黒駅界隈の史跡を紹介しようと思います。

大圓寺

JR目黒駅から駅前の道を西に歩いていくと
驚くような急坂になりました。
行人坂という坂道です。


撮影: 2008年7月

山手線から東京のビル街を眺めているとなかかなか気がつきませんが、
東京の街には時々こうした坂道があり、意外と起伏に富んだ地形に
街が広がっていることを認識しますがこの行人坂はかなりの急坂です。

坂の途中に小さな祠がありました。


撮影: 2008年7月

この坂は江戸時代初期の寛永年間に出羽・湯殿山の行人が
大日如来堂を建立し修行を始めたことから、行人坂と
呼ばれるようになったそうです。

この祠のすぐ近くに、古びたお寺がありました。
大圓寺です。


撮影: 2008年7月

湯殿山の行人が開いたお堂が
お寺の発祥になったそうです。

この大圓寺には鎌倉時代の1192年(建久4年)に
作られた重要文化財の釈迦如来立像や
十一面観音像などの仏像が伝わっています。

大圓寺の境内には多くの石像もありました。
江戸時代に作られた五百羅漢像です。


撮影: 2008年7月

この五百羅漢は、1772年(明和9年)2月29日に、
この大圓寺から出火した明和の大火で亡くなった
14,700余人を供養する為に作られたそうです。

その中には、赤い前掛けを掛けられた
「とろけ地蔵尊」や頭巾を被った石像もありました。


撮影: 2008年7月

「火事と喧嘩は江戸の華」とも言われていますが、江戸は本当に
火事の多かった街で、1601年(慶長6年)に江戸中が焼失した火事を
初めとして、1657年の明暦の大火、1682年の天和の大火、1806年の
文化の大火など、何度も江戸中が焼失する火事が起きていたようです。

大圓寺は火事に縁のあるお寺で、明和の大火の火元になっただけでなく
八百屋お七の火事とも呼ばれる天和の大火にまつわる逸話も残っています。

天和の火事で焼け出された八百屋お七は、避難したお寺の小僧・吉三に
恋をし、彼に会いたい一心で放火し、死罪となってしまいます。

その寺小僧・吉三は「西運」という名の僧となり諸国を行脚した後に大圓寺の
下の明王院に入りお七の菩提を弔うために、往復で十里も離れた
浅草観音まで、一万日往復する行を成し遂げたそうです。


浅草の様子はこちらです

そのお七と吉三の墓碑が境内にありました。


撮影: 2008年7月

「西運」が、27年半もの年月を掛け、浅草観音までの十里の
往復一万日の行を成し遂げた際には、お七が夢枕に立って
成仏した事を告げたそうです。

西運はその後、行人坂を降りたところに目黒川に太鼓橋を架けたり、
雨でぬかるむ行人坂に石を敷いたりと人々に尽くしたそうです。


撮影: 2008年7月

この石のベンチになっているのは、僧・西運が、
目黒川に架けた太鼓橋に使われた石材だそうです。

また、行人坂敷石造道供養碑もありました。


撮影: 2008年7月

大圓寺から行人坂を下ったところ、僧・西運が修行を積んだ
明王院跡には豪華な「目黒雅叙園」が建っていました。


撮影: 2008年7月

目黒雅叙園の建物の中から眺めた庭園の様子です。
当時の様子を偲ぶよすがもありませんが
落ち着いた雰囲気の庭園でした。

目黒雅叙園の先に流れる目黒川に
架かる現代の太鼓橋です。


撮影: 2008年7月

江戸時代、僧・西運が石材の橋を架けた目黒川は、
コンクリートの護岸に囲まれ堀のようになっていました。

この時は、この太鼓橋まで来て目黒駅に引き返してしまいましたが、
江戸切絵図を見ると、この先に目黒不動・滝泉寺があるようです。

江戸末期に近い嘉永の江戸切絵図では、目黒川までは大名屋敷が
建っていましたが目黒川から先は田んぼが広がっていたようです。

又の機会に目黒不動まで行ってみたいと思います。

自然教育園 (白金長者屋敷跡)

目黒駅から東に10分程東に歩くと、自然教育園があります。
国立科学博物館の付属の広大な森が広がり、
面積は約20万平米もあるそうです。


撮影: 2012年5月

上の写真は、自然教育園の入口です。
自然教育園に入ると、そこは深い森でした。


撮影: 2012年5月

この地は縄文中期に人が住み着き、室町時代には
白金長者と呼ばれる豪族が居館を設けていたそうです。


撮影: 2012年5月

江戸時代には高松藩主・松平頼重の下屋敷でした。
散策路の脇には大きな椎の木がありました。


高松城の登城記は
こちらです


撮影: 2012年5月

木々が生い茂っていてわかりにくいのですが、
散策路の右側にはずっと土塁が続いています。
室町時代の館跡だった名残なのでしょうか。
椎の木はその土塁の上に生えていました。

この先で、道が二手に分かれていました。


撮影: 2012年5月

左手の道を行くと、室町時代の白金長者の屋敷跡に向かい、
右手の道を行くと、高松藩主・松平氏下屋敷の
庭園跡のひょうたん池に向かいます。

まずは、ひょうたん池に向かいました。
ここからの道も深い木々の中を行きます。


撮影: 2012年5月

ひょうたん池の周囲は木々もなく、景色が開けていました。


撮影: 2012年5月

しかし、周囲には鬱蒼とした森が囲んでいて、大名庭園にあった
池泉回遊式の庭園の様子を思い浮かべることは出来ませんでした。

ひょうたん池の周囲には湿地帯も広がり、
カキツバタも咲いていました。


撮影: 2012年5月

ひょうたん池から北に向かい、湿地帯に沿って歩きました。


撮影: 2012年5月

北に向かう森の小路は、途中で折り返し、
自然教育園の南へとたどり着きます。


撮影: 2012年5月

上の写真は、いもりの沼や水鳥の池の様子です。
楓の木もあり、秋の紅葉の時も綺麗だと思います。

水鳥の池が自然教育園の最遠部にあたり、
ここから東に向かうと、室町時代の
白金長者の館跡になります。


撮影: 2012年5月

白金長者の館跡への道は坂道になっています。
館跡を取り囲む土塁を乗り越えるための坂道です。


撮影: 2012年5月

散策路の周囲にも土塁が続いていました。


撮影: 2012年5月

土塁に囲まれた辺りには館跡の案内板もありました。

この緑豊かな地は、明治に入ると陸軍と海軍の火薬庫となり、
大正時代には宮内庁の管轄で、皇室の白金御料地となりました。


撮影: 2012年5月

1949年(昭和24年)には、文部省の管轄となり、
国の天然記念物と史跡に指定されています。
その碑が立っていました。


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