東京 / 目黒界隈
Meguro Area in Tokyo




JR目黒駅から駅前の道を西に歩いていくと
驚くような急坂になりました。
行人坂という坂道です。



山手線から東京のビル街を眺めていると
なかなか気がつきませんが、東京の街を
歩いていると時々こうした坂道があり、
意外と起伏に富んだ地形に
街が広がっていることを認識するのですが
この行人坂はかなりの急坂です。

坂の途中に小さな祠がありました。



この坂は江戸時代初期の寛永年間に
出羽・湯殿山の行人が大日如来堂を建立し
修行を始めたことから、行人坂と
呼ばれるようになったそうです。

この祠のすぐ近くに、
古びたお寺がありました。
大圓寺です。



湯殿山の行人が開いたお堂が
お寺の発祥になったそうです。

この大圓寺には鎌倉時代の1192年(建久4年)に
作られた重要文化財の釈迦如来立像や
十一面観音像などの仏像が伝わっています。

大圓寺の境内には多くの石像もありました。
江戸時代に作られた五百羅漢像です。



この五百羅漢は、1772年(明和9年)2月29日に、
この大圓寺から出火した明和の大火で亡くなった
14,700余人を供養する為に作られたそうです。

その中には、赤い前掛けを掛けられた
「とろけ地蔵尊」や頭巾を被った石像もありました。



「火事と喧嘩は江戸の華」とも言われていますが、
江戸は本当に火事の多かった街で、
1601年(慶長6年)に江戸中が焼失した火事を初めとして、
1657年の明暦の大火、1682年の天和の大火、
1806年の文化の大火など、何度も江戸中が
焼失する火事が起きていたようです。


大圓寺は火事に縁のあるお寺で、
明和の大火の火元になっただけでなく
八百屋お七の火事とも呼ばれる
天和の大火にまつわる逸話も残っています。

天和の火事で焼け出された八百屋お七は
避難したお寺の小僧・吉三に恋をし、
彼に会いたい一心で放火し、
死罪となってしまいます。

その寺小僧・吉三は「西運」という名の僧となり
諸国を行脚した後に大圓寺の下の明王院に入り
お七の菩提を弔うために、往復で十里も離れた
浅草観音まで、一万日往復する行を成し遂げたそうです。

浅草の様子はこちらです

そのお七と吉三の墓碑が境内にありました。



「西運」が、27年半もの年月を掛け、
浅草観音までの十里の往復一万日の行を
成し遂げた際には、お七が夢枕に立って
成仏した事を告げたそうです。

西運はその後、行人坂を降りたところに
目黒川に太鼓橋を架けたり、
雨でぬかるむ行人坂に石を敷いたりと
人々に尽くしたそうです。



この石のベンチになっているのは、
僧・西運が、目黒川に架けた
太鼓橋に使われた石材だそうです。

また、行人坂敷石造道供養碑もありました。




大圓寺から行人坂を下ったところ、
僧・西運が修行を積んだ明王院跡には
豪華な「目黒雅叙園」が建っていました。



目黒雅叙園の建物の中から
眺めた庭園の様子です。

当時の様子を偲ぶよすがもありませんが
落ち着いた雰囲気の庭園でした。


目黒雅叙園の先に流れる目黒川に
架かる現代の太鼓橋です。



江戸時代、僧・西運が石材をかけた
目黒川は、コンクリートの護岸に囲まれ
堀のようになっていました。

この時は、この太鼓橋まで来て
目黒駅に引き返してしまいましたが、
江戸切絵図を見ると、この先に
目黒不動・滝泉寺があるようです。

江戸末期に近い嘉永の江戸切絵図では、
目黒川までは大名屋敷が建っていましたが
目黒川から先は田んぼが広がっていたようです。

又の機会に目黒不動まで行ってみたいと思います。




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