東京 / 神楽坂〜九段界隈
Kagura Zaka & Kudan Area in Tokyo




JR中央本線の飯田橋駅の周辺は、
西側には神楽坂があり、
南側は九段へと続いています。




そして、東には水戸藩の中屋敷(後の上屋敷)に
作られた小石川後楽園があります。

2007年に何度か東京出張があり、
この界隈を訪れてみました。


神楽坂

JR中央本線の飯田橋駅を降りると目の間に
石垣で出来た櫓台の様なものがあります。



1639年(寛永16年)に山口藩主・毛利秀就が
築いた牛込見附の門の跡です。
ここから牛込橋を渡り外濠を越えると神楽坂です。

これは牛込橋から眺めた外濠の様子です。



かつては、この牛込橋の西側のお濠は
赤坂見附から溜池、新橋と続いていたのですが、
今では赤坂見附までしか残っていないようです。

赤坂見附の様子はこちらです。


牛込橋を渡ると、狭い通りが坂道となって続いています。



坂道の両側には雑居ビルが続き、
食堂やレストランを沢山見かけました。




江戸時代の切絵図では、神楽坂は階段だったようで、
その通りの両側には武家屋敷や寺地、
それに町人町が混在していたようです。

雑踏とした神楽坂の通りに毘沙門天がありました。



江戸時代から、神楽坂の毘沙門さま」として信仰を
集めた善国寺の毘沙門天像が祀られているそうです。

善国寺は1595年(文禄4年)に、徳川家康によって
創建された由緒あるお寺です。

通りかかった時に、熱心にお祈りしている女の人がいて、
失礼とは思ったのですが、思わず写真を撮ってしまいました。


善国寺から少し上った先の通りを左に折れると
そこは地蔵坂と呼ばれているようです。
この辺りは、家康の江戸入府以前は上野国
大胡領主牛込氏の居館があったとされるところです。



その牛込氏の館跡に移設された光照寺です。
1645年(正保2年)に神田から移されたそうです。
お寺の入り口に「牛込城跡」の碑がありました。
再び神楽坂に戻り、緩やかになった坂を上ると、
右手に赤城神社がありました。



神社の由緒書に拠れば、1300年(正安2年)、
今の群馬県赤城山麓の大胡の豪族・
大胡彦太郎重治が牛込に移住した際、
鎮守の分霊をお祀りしたのが始まりだそうです。

大胡を通る上毛電気鉄道の乗車記はこちらです。

鳥居を抜けると、赤い灯篭が続き、
その先に拝殿が見えています。
神社の左手の急な崖を
下る階段が続いています。

谷間にも住宅がぎっしりと連なり、その
向こうに夕陽が沈みかかっていました。



学生と思しきカップルが、階段の一番上の段に座り、
沈み行く夕陽を眺めながら話をしている情景に出会いました。

ほのぼのとした、下町の夕暮れでした。



飯田橋〜九段坂


飯田橋駅から南に下ると、九段坂に至ります。
江戸城北之丸の北側のこの辺りは
旗本の屋敷が所狭しと立ち並んでいたようです。

JR飯田橋駅から目白通りを南東の方向に歩くと、
九段下に出るのですが、その道中には
色々な史跡跡を見かけました。


飯田橋駅から5分程歩くと、
新徴組屯所跡の碑がありました。



1862年(文久2年)に出羽の浪人・
清河八郎は将軍・家茂公上洛の際の 将軍警護として浪人を集めます。
清河八郎は尊皇攘夷の先鋒にしようと考えていたため、
清河八郎と多くの浪人たちは江戸にひき戻されます。

幕府は江戸に戻った浪士隊を新徴組として
江戸市中の警護に当たらせたそうです。

因みにこの際に、京都に居残ったのが、
近藤勇や土方歳三らの後の新撰組です。


この先には「東京女子医科大学発祥の地」の碑がありました。



明治時代の史跡は然程興味を持っていなかったのですが、
東京女子医科大学は、以前、高天神城を訪れた際、
創始者の吉岡弥生生誕の地の案内板を見つけたので
その時の様子が鮮明に蘇ってきました。

高天神城の登城記はこちらです。

そして靖国通りとの交差点近くには
滝沢馬琴の硯の井戸の碑が立っていました。



滝沢馬琴は1793年(寛政5年)から
1824年(文政7年)まで、
この元飯田町に住んでいたようです。
【註】案内板は安政5年からと書いてありますが
   これは誤記と思われます。

目白通りと靖国通りの交わる
九段下の交差点から坂の上を眺めたところです。



遠くに見える鳥居は靖国神社のものと思います。
この界隈を九段というのは、幕府が江戸城に
勤める役人の為の御用屋敷を作った際に
その屋敷の石垣が九層にも達したからだそうです。




九段下の交差点を渡ったところには
蕃書調書跡の案内板があります。



1856年(安政3年)に幕府はこの地に
蕃書調書を設け、海外事情の
調査にあたったそうです。
黒船到来後の激動の時代が伝わってきます。

この蕃書調書跡は江戸城のお濠端に立っていて、
田安門は目と鼻の先です。

田安門の様子はこちらです。

九段坂を少し上っていくと
大山巌の像もありました。






千鳥ヶ淵〜九段


北之丸の田安門から千鳥ヶ淵に掛けては、
桜並木が続き、北之丸の土手の桜と
お濠との組み合わせがとても綺麗です。



千鳥ヶ淵の桜の様子はこちらです。

千鳥ヶ淵の桜並木の途中に、
千鳥ヶ淵戦没者墓苑があります。




平日にも関わらず多くの人が訪れている桜並木から
一歩入った、戦没者墓苑は訪れる人も少なく、
ひっそりとしていました。



千鳥ヶ淵戦没者墓苑の名前は良く聞いていたのですが、
第二次世界大戦で、"海外で"亡くなった無名戦没者の
方々のお墓で、国内で空襲や原爆で亡くなった方々
そして日本軍によって自決を余儀なくされた沖縄の人達が
対象になっていないとは、知りませんでした。

墓苑には天皇陛下の、
"いくさなきよを あゆみきて おもひいづ
 かのかたきひを いきしひとびと"
の歌碑がありました。

2度と戦争を起こさない様にしたいと思います。

この近くには、日本を戦争に引き込んだ
人々を神と崇める神社があります。



歴史はある意味、血なまぐさい凄惨な戦いの連続です。

その歴史にロマンを感じる事が出来るのは、
長い間の月日の流れで、その凄惨な出来事が
風化されているからだと思います。

わずか60年程の時間は、世界中で何千万もの人々が
命を落とした戦争を風化するにはあまりにも短すぎます。
しかも今も多くの人が苦しんでいると思うと、尚更です。


この神社に、足を踏み入れる事はとても出来ず、
遠くから本殿の様子を写真に収めただけで
足早に立ち去りました。

その神社の鳥居の近くに、
大村益次郎の銅像が建っていました。



長州藩の医者だった彼は軍事的才能を発揮し、
第二次長州征伐の戦いで、幕府軍を打ち破り、
明治新政府でも兵部大輔となった人です。

大村益次郎が、江戸時代歩兵屯所のあった場所に
戊辰戦争の戦没者を祀る事に関わったそうです。



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