大宇陀
Ohuda, Nara

大宇陀は、奈良県東部の山の中にある集落です。
戦国時代までは、秋山氏が治める土地で、秋山氏は
大宇陀の集落の東側の山の頂に秋山城を築いていました。

1585年(天正13年)に、豊臣秀長が大和郡山に入ると、
大宇陀の地も豊臣の家臣が治めるようになります。

1600年(慶長5年)の関ケ原の戦いの後は、福島高晴が
入城しますが、福島高晴は大坂の陣で裏切りがあった
との理由で改易され、その後に織田信長の次男・
信勝が藩主になっています。

その織田氏も、四代目・信武の際に藩に混乱が生じ、
五代目・信休の代の1695年(元禄8年)に丹波柏原に
移封され、以降、大宇陀は天領となります。

明治以降、近鉄が大宇陀を通らなかった事も
あってか大宇陀には古い集落が残りました。
2011年8月に、大宇陀を訪れましたので、
その際の様子を紹介します。

近鉄大阪線の榛原駅からバスで大宇陀に向かい、
西山のバス停で下車し、大宇陀の集落を訪れました。

西山のバス停にほど近い宇陀松山城の
西口門が集落の入り口です。


撮影: 2011年8月

宇陀松山城の登城記はこちらです。

宇陀松山城の西口門を抜けると、タイムスリップ
したかのような古い町並みとなりました。

宇陀には多くの古い建物が残っており、17ヘクタールの
範囲が重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。


撮影: 2011年8月

西口門を抜けて、一旦南に向かい、
次の角を左に折れて東に向かいます。
次の四つ角にも古い家が建っていました。


撮影: 2011年8月

東に向かう上左の写真の道は、宇陀松山城への登城道で、
その麓にある春日神社への参道にもなっています。

参道の途中にも古い建物がありました。


撮影: 2011年8月

集落が尽きると、宇陀松山城の春日門跡の石段があり、
その奥に春日神社の立派な社殿がありました。


撮影: 2011年8月

春日神社は、1405年(応永12年)に足利義満の
寄進によって創建されたそうです。

春日門跡の北側には、織田氏が築いた
宇陀松山陣屋の上屋敷が建てられていました。

宇陀松山陣屋の登城記は こちら です。

宇陀松山陣屋と宇陀松山城に訪れた後、
春日門跡から大宇陀の集落に入り、
上町通りを南に歩いてみました。


撮影: 2011年8月

上の写真左が竹田家住宅、右が森田家住宅です。
いずれも江戸時代後期に建てられたようです。

その向かいの、唐破風付きの「天寿丸」の看板が
目立つ建物は「薬の館」として公開されています。


撮影: 2011年8月

細川氏が19世紀初めからここで
薬問屋を営んでいました。
こちらは帳場の様子です。


撮影: 2011年8月

大坂の陣の後に、宇陀に移封された
織田信勝の絵が掲げられていました。


撮影: 2011年8月

織田信長の次男として生まれ、本能寺の変の後も、
織田家の後継者候補の地位にあり、一時は100万石もの
領地を得た事もありましたが、1590年(天正18年)の
小田原征伐の後に、秀吉による移封を断り改易され、
領地を失い、大坂の陣の後に徳川家康によって
やっとこの大宇陀の地に領地を得ています。

織田信勝は、信長の面影を残していました。

色々な薬の広告版も展示されていました。


撮影: 2011年8月

これらはいつの時代でしょうか。
色々な広告があり、細川氏が手広く
商売をしていた事を伺わせます。

「薬の館」では、竈も残っていました。
歴史を感じる竈は、とても印象的でした。


撮影: 2011年8月

「薬の館」から更に南に歩きました。
古い建物の間の狭い路地は、この間を歩いて行くと
江戸時代に入り込んでしまうような錯覚を覚えます。


撮影: 2011年8月

この小路を抜けたところにも古い町並みがありました。


撮影: 2011年8月

上左の写真は、万法寺です。
楼閣のような建物があり、まさしく
江戸時代に戻ったかのような雰囲気でした。

万法寺から、再び上町通りに戻り、
更に南に向かいました。


撮影: 2011年8月

町並みの南の外れに近い所に森野旧薬園がありました。


撮影: 2011年8月

森野家11代当主の森野藤助が1729年(享保14年)に
始めた薬園で、日本最古の薬草園だそうです。

行った時には気が付かなかったのですが、
この薬草園も公開されていて、急斜面に
設けられた薬草園を上って行くと、
宇陀の町並みが一望出来るそうです。

大宇陀の集落の北側には、
徳源寺というお寺があります。


撮影: 2011年8月

訪れる人も少ないのか、
苔むした石段が続いていました。

この石段を上ると、本堂がありました。


撮影: 2011年8月

本堂と言っても、庫裡と本堂が一つになった建物で、
家紋の入った幕が本堂を示していると思いますが、
それが無いと普通の住居と変わらない佇まいです。

この家紋は織田木瓜で、徳源寺は1615年
(慶長20年)から1695年(元禄8年)まで
この地を治めた織田氏の菩提寺です。

質素な本堂から山の中に入って行くと、
織田家墓所がありました。


撮影: 2011年8月

織田氏は、五代目・信休の代の1695年(元禄8年)に
丹波柏原に移封されています。


撮影: 2011年8月

江戸時代、大名の移封に伴い、先祖のお墓ごと
移封先に移す例もあったようですが、織田氏の
4代のお墓は、大宇陀の地に残されました。

織田氏が去った後、大宇陀の地は天領になりましたが、
織田氏のお墓は、徳源寺の住職と大宇陀の人達に
よって、静かに守られ、今に残っているようです。

大宇陀のページのTopに戻る

関西地方のページに戻る

Shane旅日記 日本編に戻る