大宇陀は、奈良県東部の山の中にある集落です。
1585年(天正13年)に、豊臣秀長が大和郡山に入ると、
1600年(慶長5年)の関ケ原の戦いの後は、福島高晴が
その織田氏も、四代目・信武の際に藩に混乱が生じ、
明治以降、近鉄が大宇陀を通らなかった事も
近鉄大阪線の榛原駅からバスで大宇陀に向かい、
西山のバス停にほど近い宇陀松山城の
宇陀松山城の西口門を抜けると、タイムスリップ
宇陀には多くの古い建物が残っており、17ヘクタールの
西口門を抜けて、一旦南に向かい、
東に向かう上左の写真の道は、宇陀松山城への登城道で、
参道の途中にも古い建物がありました。
集落が尽きると、宇陀松山城の春日門跡の石段があり、
春日神社は、1405年(応永12年)に足利義満の
春日門跡の北側には、織田氏が築いた
宇陀松山陣屋と宇陀松山城に訪れた後、
上の写真左が竹田家住宅、右が森田家住宅です。
その向かいの、唐破風付きの「天寿丸」の看板が
細川氏が19世紀初めからここで
大坂の陣の後に、宇陀に移封された
織田信長の次男として生まれ、本能寺の変の後も、
織田信勝は、信長の面影を残していました。
色々な薬の広告版も展示されていました。
これらはいつの時代でしょうか。
「薬の館」では、竈も残っていました。
「薬の館」から更に南に歩きました。
この小路を抜けたところにも古い町並みがありました。
上左の写真は、万法寺です。
万法寺から、再び上町通りに戻り、
町並みの南の外れに近い所に森野旧薬園がありました。
森野家11代当主の森野藤助が1729年(享保14年)に
行った時には気が付かなかったのですが、
大宇陀の集落の北側には、
訪れる人も少ないのか、
この石段を上ると、本堂がありました。
本堂と言っても、庫裡と本堂が一つになった建物で、
この家紋は織田木瓜で、徳源寺は1615年
質素な本堂から山の中に入って行くと、
大宇陀
Ohuda, Nara
戦国時代までは、秋山氏が治める土地で、秋山氏は
大宇陀の集落の東側の山の頂に秋山城を築いていました。
大宇陀の地も豊臣の家臣が治めるようになります。
入城しますが、福島高晴は大坂の陣で裏切りがあった
との理由で改易され、その後に織田信長の次男・
信勝が藩主になっています。
五代目・信休の代の1695年(元禄8年)に丹波柏原に
移封され、以降、大宇陀は天領となります。
あってか大宇陀には古い集落が残りました。
2011年8月に、大宇陀を訪れましたので、
その際の様子を紹介します。
西山のバス停で下車し、大宇陀の集落を訪れました。
西口門が集落の入り口です。
撮影: 2011年8月
したかのような古い町並みとなりました。
範囲が重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。
撮影: 2011年8月
次の角を左に折れて東に向かいます。
次の四つ角にも古い家が建っていました。
撮影: 2011年8月
その麓にある春日神社への参道にもなっています。
撮影: 2011年8月
その奥に春日神社の立派な社殿がありました。
撮影: 2011年8月
寄進によって創建されたそうです。
宇陀松山陣屋の上屋敷が建てられていました。
春日門跡から大宇陀の集落に入り、
上町通りを南に歩いてみました。
撮影: 2011年8月
いずれも江戸時代後期に建てられたようです。
目立つ建物は「薬の館」として公開されています。
撮影: 2011年8月
薬問屋を営んでいました。
こちらは帳場の様子です。
撮影: 2011年8月
織田信勝の絵が掲げられていました。
撮影: 2011年8月
織田家の後継者候補の地位にあり、一時は100万石もの
領地を得た事もありましたが、1590年(天正18年)の
小田原征伐の後に、秀吉による移封を断り改易され、
領地を失い、大坂の陣の後に徳川家康によって
やっとこの大宇陀の地に領地を得ています。
撮影: 2011年8月
色々な広告があり、細川氏が手広く
商売をしていた事を伺わせます。
歴史を感じる竈は、とても印象的でした。
撮影: 2011年8月
古い建物の間の狭い路地は、この間を歩いて行くと
江戸時代に入り込んでしまうような錯覚を覚えます。
撮影: 2011年8月
撮影: 2011年8月
楼閣のような建物があり、まさしく
江戸時代に戻ったかのような雰囲気でした。
更に南に向かいました。
撮影: 2011年8月
撮影: 2011年8月
始めた薬園で、日本最古の薬草園だそうです。
この薬草園も公開されていて、急斜面に
設けられた薬草園を上って行くと、
宇陀の町並みが一望出来るそうです。
徳源寺というお寺があります。
撮影: 2011年8月
苔むした石段が続いていました。
撮影: 2011年8月
家紋の入った幕が本堂を示していると思いますが、
それが無いと普通の住居と変わらない佇まいです。
(慶長20年)から1695年(元禄8年)まで
この地を治めた織田氏の菩提寺です。
織田家墓所がありました。