益田
Masuda, Shimane

益田は島根県西部の街です。
JR山陰本線と山口線の接続駅で交通の要衝ですが、
中世から益田氏がここで勢力を伸ばした地で、
所縁の史跡も何箇所か残っています。

山陰本線の乗車記はこちらです。

まずは、益田駅から東に向かい、
医光寺を目指しました。

医光寺の前身は、益田氏の菩提寺として
1363年(天平18年)に建立された崇観寺です。

益田氏17代の宗兼 (?〜1544) が、この医光寺を建て、
崇観寺と統合したそうです。


撮影: 2011年7月

医光寺の総門は、戦国時代まで益田氏の
居城だった七尾城の大手門と伝わります。

七尾城の登城記はこちらです。

石段を登り、中門を抜けると、
堂々とした医光寺の本堂が現れました。


撮影: 2011年7月

この本堂の裏に雪舟庭園があります。
絵画で名高い雪舟
(1420〜1502 または 1506) ですが、
作庭家としても知られているそうです。


撮影: 2011年7月

この庭園は、1479年(文明11年)に雪舟が、
益田氏代15代当主・益田兼堯
(?〜1485)
招かれた際に作庭したと伝わっています。

雪舟所縁のお寺という事でしょうか、本堂には
雪舟が修行時代に仏堂の柱に括り付けられた際に、
床に落とした涙で鼠を描いた逸話の像がありました。


撮影: 2011年7月

医光寺の境内には、医光寺を建立した
益田宗兼のお墓がありました。


撮影: 2011年7月

医光寺から西に向かうと染羽天石勝神社があります。


撮影: 2011年7月

染羽天石勝神社は、注連石を神とした自然崇拝の
神社で、725年(神亀2年)に創建されています。

本殿は1581年(天正9年)に火災にあって焼失しましたが、
益田藤兼
(1529〜1597) ・益田元祥 (1558〜1640) 父子が再建し、
国の重要文化財に指定されています。


撮影: 2011年7月

本殿への階段の前に神門が建っているのですが、
神門で参拝するようになっており、本殿には
辿り着けない構造になっています。


撮影: 2011年7月

本殿隣に建つ境内社です。
本殿の様子はこの境内社への階段を
上ると、横から伺う事が出来ました。

染羽天石勝神社から南へ向かうと、益田川の
畔の高台に、益田兼見のお墓があります。


撮影: 2011年7月

益田兼見は南北朝時代の人で、益田氏11代当主です。
足利尊氏やその子・直冬に従い、その後は大内義孝が
1551年(天文20年)に、家臣の陶晴賢に敗れるまで
大内氏に従ったそうです。


撮影: 2011年7月

益田兼見のお墓の左手の小ぶりなお墓は、
父・兼方のお墓です。

このお墓のある高台からは、益田川と
その向こうに益田氏の本拠だった
七尾城のある七尾山が見えていました。


撮影: 2011年7月

七尾城の登城記はこちらです。

益田兼見の墓から西側の通りの
益田川の畔に萬福寺があります。

萬福寺平安時代に、益田川の河口付近に
安福寺として創建されたお寺です。

その後再興されましたが、1374年(文中3年/応安7年)に
益田兼見が現在地に移し、萬福寺と名付けました。


撮影: 2011年7月

国の重要文化財の本堂です。
幕末の第二次長州征伐の際には
ここが幕府軍の陣営になったそうです。

本堂の裏に、ここにも雪舟が作った庭が
あるのですが、こちらは見逃してしまいました。

萬福寺から益田川を渡った、七尾山の
麓には益田兼堯のお墓がありました。


撮影: 2011年7月

雪舟をこの益田の地に招き、自身の絵を描かせたり、
医光寺に残る庭園を造らせたりした益田兼堯ですが、
そのお墓は、思ったよりも質素なものでした。

この後、益田氏の本拠・七尾城と、
城館のあった三宅御土居を訪れています。
益田は、益田氏所縁の史跡が多い街でした。

七尾城の登城記はこちらです。
三宅御土居の登城記はこちらです。

中国地方のページに戻る

Shane旅日記 日本編に戻る