美観地区 (1) 阿知町から大原美術館
(Bikan Historical Quarter 1)
倉敷の美観地区は、JR倉敷駅から
南東に1km程離れたところにあります。
倉敷駅から駅前の大通りを南に向かい、
15分程歩いたところが美観地区の入り口ですが
その一本手前が阿知町の交差点です。
ここを右に折れると古い町並みがありました。
国の重要文化財の大橋家住宅があるのですが
訪れたのが朝8時と開館前だったので
中に入る事が出来ませんでした。
阿知町の散策を簡単に終え、倉敷駅からの
目抜き通りに戻り、一つ先の交差点で左に折れました。
ここが美観地区の入り口です。
両側にはお土産物屋さんが並んでいますが
どの建物も昔ながらの土蔵造りです。
広い通りは歩行者用になっていて
安心して歩けます。
これはとてもいい事です。
この先、道路が右に折れる角の位置の
左手に倉敷物語館というのがありました。
2009年(平成21年)に出来た観光施設です。
東大橋家を整備したそうで、江戸時代からの長屋門や
土蔵があり当時の様子を彷彿とする事が出来ます。
倉敷の様子などを紹介する展示もあって
美観地区の散策前に立ち寄るのもいいと思います。
倉敷物語館の先の角を曲がると亀遊亭があります。
ホテルが経営するレストランです。
この亀遊亭の東側から倉敷川が現れ
倉敷の代表的な景色が広がります。
ここが倉敷川の端です。
倉敷川はここで途切れ、堀の様になっています。
当時は、この先から流れ込んでいたのでしょうか。
ここから東に川が流れています。
その南側の様子です。
通りに沿って素敵な喫茶店がありました。
店の名前の「エル・グレコ」は大原美術館所有の
名画の作者から付いていると思います。
倉敷川には白鳥の親子が泳ぎ
観光客もその姿に見入っていました。
この先で倉敷川に架かる今橋の袂に
大原美術館があります。
西洋風の立派な建物が大原美術館の本館です。
大畑美術館は、倉敷紡績(クラボウ)の社長だった
大原孫三郎が援助していた児島虎次郎に託して
収集した美術品を展示しています。
美術館の内部の様子です。
この大原美術館が開館されたのは1930年で、
日本で最初に西洋美術を展示する美術館だったそうです。
エル・グレコの『受胎告知』やモネなどの
素晴らしい西洋絵画がありました。
こちらは蔵造りの東洋館です。
ここには棟方志功氏の作品もありました。
コの字状になっている東洋館と工芸館の様子です。
この一角の左手にはフランスからモネの日本庭園から
送られた睡蓮が水辺に植えられていました。
大原美術館を出て、再び倉敷川の畔へ出ました。
今橋の様子です。
倉敷川には白鳥が泳ぎ、
多くの人がカメラを向けていました。
この今橋から眺めた倉敷川の様子です。
川の両岸に柳の並木が続き、
川面には観光船が浮かんでいます。
この今橋の北に大原家住宅があります。
大原家は阿知町の大橋家と並び、倉敷の豪商でした。
この大原家住宅は江戸後期に建てられ、
国の重要文化財に指定されています。
残念ながら内部非公開で、外観のみ眺める事が出来ます。
当時は、今橋の南側、今の大原美術館の土地にも
大原家の店舗や蔵などがあったそうです。
大原美術館の創始者・大原孫三郎は
この大原家の跡取り息子でした。
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美観地区 (2) 今橋から中橋
(Bikan Historical Quarter 2)
今橋から倉敷川の北側を歩いて行きました。
大原家住宅から狭い通りを隔てた東側には有隣荘があります。
そして、その先には白壁の土蔵の建物が続いています。
有隣荘は、大原孫三郎が病弱な妻の為に作った別邸です。
大原氏の手を離れた後は、貴賓客のもてなし用に用いられ、
昭和天皇もここに泊まられたそうです。
この先には白壁の「カモ井」という食堂がありました。
「カモ井」とその隣の旅館「鶴形」との
間には細い路地があります。
白壁の建物の間の狭い路地。
なんだか別世界に引き込まれるような感じでした。
この先にある料理旅館の「鶴形」です。
江戸時代中期、1744年(寛保4年)に
建てられた商家を用いているそうです。
この辺りの倉敷川の様子です。
観光用の川船が浮かび、風情満点です。
倉敷川の南側には木塀が続いています。
この先に加計美術館があるようです。
この美観地区では写真を沢山撮ったのですが
この加計美術館の写真は撮らなかったようです。
この辺りから眺める倉敷川の様子です。
川沿いの柳の木の向こうの「鶴形」の建物が
とてもいい雰囲気でした。
この先に中橋がありました。
倉敷美観地区の中心に位置しています。
橋の袂には至る所、白壁の蔵が建っています。
中橋の南側の袂に建つ倉敷館です。
1917年(大正6年)に倉敷町役場として
建てられた西洋風の木造の建物です。
白壁の蔵造りの建物の中、この洋館も
なかなか周囲の風景にマッチしていました。
中橋を渡り、再び北側に向かいます。
中橋からの蔵造りの建物の眺めです。
やはり川に浮かぶか観光船が絵になります。
中橋を渡ったところで、人力車が停まっていました。
古い倉敷の街並みに良く合っていました。
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美観地区 (3) 中橋から高砂橋
(Bikan Historical Quarter 3)
中橋の袂にある倉敷考古館です。
江戸時代の蔵を1950年(昭和30年)に
考古館としてオープンしています。
第二次大戦後に占領軍から大原財団の建物の
一部を文化財として開放するよう指示があったそうです。
美観地区を流れる倉敷川は、
中橋でほぼ90度、流れを変えています。
中橋の北側に立つと折れ曲がる川の様子が一望に出来、
中橋の南側にも柳の並木が続いていました。
倉敷川の東側に沿って南に向かう事にしました。
倉敷川沿いに建つ旅館です。
朝まだ観光客が歩き出す前の時刻だったのですが
旅館の方が、綺麗に道の掃いている姿が印象的でした。
白壁の蔵造りの旅館もなかなかの佇まいでしたが
この先の道沿いにもずっと白壁の建物が続いています。
川端には常夜灯も立ち、江戸時代の
雰囲気が色濃く残っていました。
旅館「くらしき」の南には手織物のお店がありました。
その店の角から東に入ると有名なアイビースクエアがあります。
この辺りを倉敷川の対岸から眺めた様子です。
この近くに観光船の船乗場もありました。
更に南に向かうと、地酒のお店があります。
思いのほか開業は新しく大正時代との事です。
しかし、店の佇まいは江戸時代の様です。
こうして歩いていると、中橋から西の倉敷川沿いには
大原氏などの豪商ゆかりの大きな敷地の建物が続き、
この辺りは庶民的な町屋が多かった様です。
この先も続く町屋の様子です。
中橋から高砂橋までの100m程に
亘って蔵造りの建物が続いています。
日本各地に重要伝統的建造物保存地区がありますが
これだけ広い範囲に古い町並みが続くところも
他にはあまりないと思います。
美観地区の南の外れに架かる高砂橋から
倉敷川の北側を眺めた様子です。
今度は右側、倉敷川の西側を北に向かいました。
高砂橋の近くには、倉敷出身で、元プロ野球選手や
監督を勤めた人の記念館になっていました。
その先も蔵の建物が続いています。
中橋に近づいた頃に倉敷民藝館がありました。
青空に白壁の蔵が良く映えて、美しい光景でした。
江戸時代の米蔵を用いて、1948年(昭和23年)に
各地の民芸品を展示する資料館としてオープンしています。
倉敷川の対岸から民藝館を眺めた様子です。
江戸時代の佇まいそのものです。
当時、倉敷絹織(現在のクラレ)の社長だった
大原總一郎が4棟もの米蔵を提供したという事です。
この倉敷民藝館が、江戸時代の景観を残す
美観地区の保存運動のきっかけになったそうです。
倉敷民藝館の隣が倉敷観光協会です。
これで、倉敷川に沿って美観地区を一通り巡りました。
数多くの蔵造りの建物が残っており、本当に
その名の通り、美しい景色が残っていました。
この後、アイビースクエアに向かいました。
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アイビースクエア
(Kurashiki Ivy Square)
倉敷川に沿って散策した後に、
倉敷アイビースクエアに向かいました。
この角を曲がって東に向かいます。
この先は細い路地になっていました。
普段、この路地も多くの観光客で溢れる事と思いますが
まだ10時前、観光客の姿も数える程でした。
この細い路地を抜けるとアイビースクエアです。
このアイビースクエアも倉敷を代表する観光名所の一つです。
1889年(明治22年)に建設された倉敷紡績の工場でしたが、
1973年(昭和48年)に改修されホテルや観光施設になっています。
このアイビースクエアの場所には、江戸時代には
天領だった倉敷の地を治める代官所が置かれていました。
倉敷代官所としての登城記はこちらです。
アイビースクエアの西側の門から
中に入って振り返って眺めた様子です。
写真右手に児島虎次郎記念館で
その手前に倉敷記念館があります。
白壁の蔵に囲まれた空間です。
この先、右手にはチャペルと瀟洒な洋館がありました。
瀟洒な洋館は、大正時代に建てられた工場の事務所
だった建物で、今はオルゴール博物館になっています。
この向かいに、名前の由来になった
蔦で覆われた赤煉瓦の建物がありました。
生い茂った一面の蔦で、建物が全く見えません。
この建物は紡績工場だった建物です。
蔦は、工場だった時代に内部の
温度調整の為に植えられたものだそうです。
内部は屋根に明り取りの窓が並んでいます。
天井板が無く、屋根を支える梁や桁、棟木などが
見え、いかにも工場の建物と言った感じです。
内部にはギャラリーや土産物屋さんなどもありました。
この建物を抜けると中庭があります。
広い空間にテーブルと椅子が並んでいる様子は
周囲の土蔵造りの建物の雰囲気とは異なり
西洋の街角の様な感じです。
広場の東側には、モネの睡蓮がありました。
この建物の奥がホテル棟になっていました。
この中には入れないので、建物の外側をぐるりと回ります。
ホテル棟とホテル棟の間に、並木に囲まれた、
まるで高原の様な中庭がありました。
この先にアイビースクエアの正門があります。
このアイビースクエアを訪れたのは2度目で、
最初の時には、ここに泊まったのですが
この正門を眺めるのは初めてでした。
正門から道路を隔てた所にはフローラルコート
というアイビースクエアの別棟があります。
多目的ホールとして使われているようです。
この西洋風の建物も、大正時代のものだそうです。
この一角には城山稲荷という神社がありました。
戦国時代、この辺りは小野ヶ城
というお城があったそうです。
小野ヶ城としての登城記はこちらです。
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本町・東町
(Honmachi & Higashimachi)
アイビ−スクエアを訪れた後、
西側の路地を北に向かいました。
この界隈も古い建物が並んでいます。
観光客向けのお店や飲食店が多く集まっていました。
この通りを進むとやがてT字路となります。
この辺りが本町です。
倉敷美観地区というと、倉敷川沿いが特に有名で
多くの観光客も、そのあたりに集中していますが
この本町は、倉敷川周辺よりも古い町並みで
白漆喰の町屋が軒を連ねています。
上左の写真は、T字路の左手にある井上家住宅で
倉敷美観地区で最も古い建物だそうです。
倉敷窓と呼ばれる角柄窓に、3本の格子が
入った窓が二階に並んでいます。
その窓全てに防火用の土壁の扉が付いています。
井上家住宅の内部の様子です。
梁の作り方も特徴があるという事でした。
2012年から井上家住宅では修復されており
暫くの間、内部公開されていないそうです。
井上家住宅から東に向かいました。
観光客の姿はありませんでしたが
土蔵造りの家が道の両側に続いています。
この辺りも白壁の町屋が続いています。
倉敷の古い町並みは、想像以上に
広い範囲に広がっている事が判りました。
上の写真は東町と呼ばれる一角です。
ここから先は、古い家の密度が低くなっている
ようだったので、この辺りで引き返しました。
東町で見かけた細い路地です。
こうした細い路地を倉敷では「ひやさい」と呼んでいます。
私有地に入ってしまいそうで、立ち入る事はしなかったのですが
こうした路地を歩くと、古い倉敷が栄えていた
時代を彷徨う感じになるのでしょうか。
本町と東町の北側には小高い鶴形山があります。
古い町並みを散策した後に、この鶴形山にある
阿智神社を訪れてみました。
本町の町並みにある阿智神社の参道です。
鳥居の先に、急な石段が続いていました。
急な斜面には懸造りの舞台もありました。
この阿智神社は漢の霊帝の曾孫・阿知使主(あちのおみ)が
この地に移り、中国の技術をもたらし、吉備の国の
繁栄を築いたのを称え祀った神社という事です。
阿智神社の拝殿です。
境内には神楽殿や別宮の社などもありましたが
どれも歴史を感じさせるものでした。
この阿智神社の境内には城山稲荷もありました。
この稲荷神社の謂れは調べても判りませんでしたが
中世の倉敷には鶴形山の南麓に小山があり、
そこに小野氏が城を築いたと言われています。
アイビースクエアの東側にも城山稲荷があり
小野氏の居城があったと言われていますが
すぐ近くのこの鶴形山にも要害の砦が
築かれていたのではないかと思います。
この阿智神社からの眺めです。
蔵造りの建物が密集する倉敷の
美観地区が一望出来ました。
心地よい風も吹き、素晴らしい時を過ごしました。
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