魚津は富山県東部、富山湾に面した街です。
魚津は、富山湾のホタルイカ、蜃気楼
その魚津には、戦国時代に上杉氏と
魚津城を訪れた際、近くを散策してみました。
住宅地の奥に見える校舎が、魚津城址に建っていた
魚津城址から少し海岸方向に歩いていくと、古い倉庫がありました。
この倉庫が魚津の米騒動の舞台になった倉庫です。
当時の時代背景として、その4年前の1914年に始まった
魚津の騒動が新聞で報じられると、富山県の近隣の街でも
米騒動の現場となった倉庫は、当時の十二銀行の倉庫でした。
地元の米商人が買い付けた米が銀行の倉庫に
倉庫のすぐ近くには、当時汽船が停泊していた港がありました。
今は大型船は寄港出来そうもありませんが、ここからは
丁度、沖合を貨物船が通っていましたが、
海岸にカモメがいました。
この海岸から、富山地方鉄道の電鉄魚津駅に戻りました。
駅の近くにお寺があったので立ち寄ってみました。
長教寺は、魚津城の本城のあった松倉城の城下に創建され、
この長教寺には見事な格天井がありました。
格天井は格式の高い天井の造りですが、
揚羽蝶の紋が漆の装飾で描かれています。
天正年間の1582年(天正10年)には、織田氏が魚津城を
魚津
Uozu, Toyama
黒部や滑川といった都市と並んでいます。
そして埋没林が知られています。
織田氏が戦った魚津城があります。
撮影: 2012年5月
大町小学校の校舎です。
撮影: 2012年5月
魚津の米騒動は、社会の時間に習った記憶があります。
時は1918年(大正7年)、この倉庫に収められていた米を
港に停泊した汽船に積み込もうとした際に、近くに住む
漁師の家族らが阻止した事件だったようです。
第一次世界大戦以降、物価の急騰が生じ、米の価格が
それ以前の4倍にもなっていたことが挙げられています。
同じような騒動が続き、それが全国へと広がっていったそうです。
保管され、それを汽船で出荷していたようです。
撮影: 2012年5月
魚津の名物の一つ、蜃気楼が見られるそうです。
撮影: 2012年5月
この日は蜃気楼は見られませんでした。
撮影: 2012年5月
日蓮宗の長教寺です。
撮影: 2012年5月
戦国時代末期の天正年間に魚津に移り、1834年(天保5年)に
現在地に移転したようです。
撮影: 2012年5月
この長教寺の格天井は見事でした。
揚羽蝶の家紋は、織田信長も用いていたのです。
攻め滅ぼしていますが、それは本能寺の変の翌日で、
織田軍の大将・柴田勝家は魚津城を放棄して撤退して
いますので、長教寺に影響力を及ぼしたとは考えにくいです。