刈谷は、愛知県のほぼ中央部、三河地方の西端にあり、
境川を隔てて、尾張の緒川と向き合っています。
トヨタ自動車系列の部品メーカーの多くが
刈谷に本社を構える自動車産業都市で、
トヨタ自動車も刈谷が発祥の地だそうです。
現在の市の人口は15万人。
刈谷駅の一日の乗降客数は約7万人で、
豊橋 - 米原間の東海道本線としては、
名古屋、金山に次ぐ利用客数です。
戦国時代には、水野氏宗家の水野忠政が
刈谷城を築き、緒川から刈谷に本拠を移します。
徳川家康の生母・於大の方は水野忠政の娘で、
刈谷城から岡崎城の徳川広忠に嫁ぎました。
工場や新興住宅地も多く広がる刈谷ですが、
残された古い町並みや史跡を紹介します。
刈谷城
(Ruins of Kariya Castle) |
椎の木屋敷跡
(Shiinoki-Yashiki) |
|
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重原地区は、刈谷駅東側の微高地に広がる集落です。
江戸時代、刈谷は刈谷藩が治める土地でしたが、
この重原地区は、東北の福島藩の領地でした。
重原の集落も古くからの集落らしく、
落ち着いた佇まいでした。
集落の中には、江戸時代の長屋門と
思われる建物もありました。
集落の中に浄福寺がありました。
案内板によると文武天皇の時代
(707 - 715)
の創建です。
12世紀半ばの戦乱で焼失し、廃寺となりましたが、
1710年(宝永7年)に再興したお寺です。
この浄福寺の境内の脇に重原陣屋の碑と、
「是より東福島領」の碑が立っていました。
刈谷藩では寛政時代(1789 - 1801)に一揆が起き、
その処分として、福島藩と一部の領地を交換する
という処分が下ったようです。
今の行政区分とは違い、江戸時代の藩には
多くの飛び地があったのは知っていましたが、
このように東北地方と東海地方の間でこうした
飛び地があったら、交通の便の悪かった当時は
その管理が特に大変だったことと思います。
重原の陣屋跡から刈谷駅に向かう際に、東海道本線の
線路を超え、刈谷児童公園の方に立ち寄ってみました。
ここには宮城道雄の供養塔があります。
宮城道雄は、「春の海」の作曲者としても知られる
箏曲家ですが、1956年(昭和31年)6月25日未明、
演奏旅行の為に、寝台急行「銀河」で東京から
大阪に向かいましたが、刈谷駅手前で走行中の
列車から転落し、亡くなっています。
この転落死の原因は不明とされていますが、
宮城道雄は、幼いころに失明しており、
誤ってトイレの戸と列車のデッキの扉を
間違って開けたとも言われています。
半城土は刈谷市の東部、刈谷市の中心部からは、
刈谷市を北東から南西に流れる猿渡川を
渡ったところにあります。
JR東海道本線の野田新町駅が半城土の
最寄り駅でここから歩いて向かいました。
駅から5分程で、半城土の集落に着きました。
半城土の集落にはいると、
十応寺がありました。
黄檗宗のお寺だそうですが、今は無住となり、
半城土の地区で管理しているそうです。
このお寺の建物は、重原陣屋の
玄関が移築されたそうです。
神社の社務所の様な建物が本堂で、
陣屋の玄関なのでしょうか。
十応寺の斜め前に願行寺がありました。
願行寺の創建は慶長年間と伝わるそうです。
西暦では、1596年から1615年の間になります。
山門は、重原陣屋の門を移築してるそうです。
六地蔵の並ぶ境内はひっそりしていました。
願行寺を辞する際、山門の向こうに、
先ほどの十応寺の門が見えていました。
願行寺から半城土の集落を北から
南へと横切り、天満宮に行きました。
この天満宮の歴史は古く1044年
(寛徳元年)の創建だそうです。
この天満宮は半城土の集落のある微高地の端に
位置しており、南側は石段が続いていました。
天満宮から再び半城土の集落を歩きました。
古びた家も多い集落です。
集落の北側に近い勝宝寺に向かいました。