刈谷は、愛知県のほぼ中央部、三河地方の西端にあり、
トヨタ自動車系列の部品メーカーの多くが
現在の市の人口は15万人。
戦国時代には、水野氏宗家の水野忠政が
工場や新興住宅地も多く広がる刈谷ですが、
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重原地区は、刈谷駅東側の微高地に広がる集落です。
重原の集落も古くからの集落らしく、
集落の中には、江戸時代の長屋門と
集落の中に浄福寺がありました。
案内板によると文武天皇の時代
この浄福寺の境内の脇に重原陣屋の碑と、
刈谷藩では寛政時代(1789 - 1801)に一揆が起き、
今の行政区分とは違い、江戸時代の藩には
重原の陣屋跡から刈谷駅に向かう際に、東海道本線の
ここには宮城道雄の供養塔があります。
宮城道雄は、「春の海」の作曲者としても知られる
この転落死の原因は不明とされていますが、
半城土は刈谷市の東部、刈谷市の中心部からは、
JR東海道本線の野田新町駅が半城土の
駅から5分程で、半城土の集落に着きました。
半城土の集落にはいると、
黄檗宗のお寺だそうですが、今は無住となり、 このお寺の建物は、重原陣屋の
神社の社務所の様な建物が本堂で、
十応寺の斜め前に願行寺がありました。
願行寺の創建は慶長年間と伝わるそうです。
六地蔵の並ぶ境内はひっそりしていました。
願行寺から半城土の集落を北から
この天満宮の歴史は古く1044年
この天満宮は半城土の集落のある微高地の端に
天満宮から再び半城土の集落を歩きました。
古びた家も多い集落です。
刈谷
Kariya, Aichi
境川を隔てて、尾張の緒川と向き合っています。
刈谷に本社を構える自動車産業都市で、
トヨタ自動車も刈谷が発祥の地だそうです。
刈谷駅の一日の乗降客数は約7万人で、
豊橋 - 米原間の東海道本線としては、
名古屋、金山に次ぐ利用客数です。
刈谷城を築き、緒川から刈谷に本拠を移します。
徳川家康の生母・於大の方は水野忠政の娘で、
刈谷城から岡崎城の徳川広忠に嫁ぎました。
残された古い町並みや史跡を紹介します。
(Ruins of Kariya Castle)
(Shiinoki-Yashiki)
重原界隈
(Shigehara Area)
江戸時代、刈谷は刈谷藩が治める土地でしたが、
この重原地区は、東北の福島藩の領地でした。
落ち着いた佇まいでした。
撮影: 2011年5月
思われる建物もありました。
撮影: 2011年5月
12世紀半ばの戦乱で焼失し、廃寺となりましたが、
1710年(宝永7年)に再興したお寺です。
撮影: 2011年5月
「是より東福島領」の碑が立っていました。
撮影: 2011年5月
その処分として、福島藩と一部の領地を交換する
という処分が下ったようです。
多くの飛び地があったのは知っていましたが、
このように東北地方と東海地方の間でこうした
飛び地があったら、交通の便の悪かった当時は
その管理が特に大変だったことと思います。
線路を超え、刈谷児童公園の方に立ち寄ってみました。
撮影: 2011年5月
箏曲家ですが、1956年(昭和31年)6月25日未明、
演奏旅行の為に、寝台急行「銀河」で東京から
大阪に向かいましたが、刈谷駅手前で走行中の
列車から転落し、亡くなっています。
宮城道雄は、幼いころに失明しており、
誤ってトイレの戸と列車のデッキの扉を
間違って開けたとも言われています。
(Hanjyodo Area)
刈谷市を北東から南西に流れる猿渡川を
渡ったところにあります。
最寄り駅でここから歩いて向かいました。
撮影: 2011年5月
十応寺がありました。
半城土の地区で管理しているそうです。
撮影: 2011年5月
玄関が移築されたそうです。
陣屋の玄関なのでしょうか。
撮影: 2011年5月
西暦では、1596年から1615年の間になります。
山門は、重原陣屋の門を移築してるそうです。
撮影: 2011年5月
願行寺を辞する際、山門の向こうに、
先ほどの十応寺の門が見えていました。
撮影: 2011年5月
南へと横切り、天満宮に行きました。
撮影: 2011年5月
(寛徳元年)の創建だそうです。
位置しており、南側は石段が続いていました。
撮影: 2011年5月
集落の北側に近い勝宝寺に向かいました。