諏訪は本州の中央にある長野県の
へそに当る位置にしていて、
周囲を八ヶ岳や車山、高ボッチといった
1500mから2000mを超える山々に
囲まれた盆地になっています。
その中央に、諏訪湖があり、
ここから天竜川が流れ出し、
太平洋へと注いでいます。
この諏訪の地には、日本書紀や
古事記にもその名が出てくる神話の里です。
古くからこの地にある諏訪大社は
大国主命(オオクニヌシノミコト)の長男、
建御名方命(タケミナカタノミコトを祀っています。
その建御名方命の血をひくとされ、
この諏訪大社の神職を代々勤めてきた諏訪氏が
営々とこの地を納めていました。
戦国時代、諏訪頼重が武田信玄によって
自害させられ、諏訪氏は滅ぼされてしまいますが
江戸時代には徳川家康によって再興され
高島藩主として代々この地を治めてきました。
そんな諏訪には、諏訪大社を始めるとする
諏訪氏ゆかりの史跡が溢れている史跡の里です。
(Suwa Taisha Shrine Shimosha Harumiya) |
(Suwa Taisha Shrine Shimosha Akimiya) |
(Suwa Taisha Shrine Kamisha Hongu) NEW ! Mar. 22, '10 |
(Suwa Taisha Shrine Kamisha Maemiya) |
(Kosaka kannonin) Mar. 20, '10 |
(Raijyuin Temple) Mar. 18, '10 |
(Raigakuji Temple) Mar. 09, '10 |
(Takasima Castle) Aug. 16, '08 |
(Ruin of Uehara Jyo Castle) Mar. 14, '10 |
(Ruin of Kuwahara Jyo Castle) Mar. 16, '10 |
小林山の額が掲げられた総門の向こうに
立派な杉並木が続いていました。
この杉並木は樹齢300年を超える
大木が生えていたそうですが、
1934年(昭和9年)の室戸台風で
多くの木が倒れてしまったのは惜しいです。
この日はお葬式が行われていたようで
お坊さんが丁度帰るところに出会いました。
杉並木に袈裟を着たお坊さんの
姿が絵になっていました。
杉並木の奥に急な階段が続き
その上に山門が聳えていました。
階段の途中に小さなお墓がありました。
山門には「鵞湖禅林」の額が
掲げられていました。
「鵞湖禅林」は頼岳寺の別名で、
鵞湖は、諏訪湖の事だそうです。
山門をくぐると頼岳寺の
本堂が見えてきます。
現在の本堂は1917年(大正6年)に建てられ、
お寺の歴史や雰囲気からすると
意外な程、新しい本堂でした。
本堂の奥には、諏訪頼水公や
頼水公の父・頼忠公や母を祀る御廟や、
芭蕉の句碑もあったようですが、
本堂で引き返してしまいました。
参道の脇にあった子安地蔵堂です。
御廟を訪れなかったのは残念ですが、
頼岳寺は重厚な雰囲気のある
とてもいいお寺でした。
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頼重院はその集落の中、
街道から少し入ったところにありました。
街道から緩やかな坂道を登ると
小さな山門のすぐ奥に
本堂が建っていました。
意外にも新しい本堂でした。
諏訪頼重は、居城の上原城から
桑原城に移りますが、その翌日に
桑原城を開城し、武田氏に下ります。
甲府に送られた諏訪頼重は
自刃させられてしまい、
東光寺にそのお墓があるそうです。
この頼重院には、頼重公の供養塔があるそうですが
「頼重公墓辺」という標識があった石碑を見て、
満足して帰ってきてしまいました。
これがその石碑です。
境内には「武田信玄」を書いた
新田次郎氏の歌碑もありました。
"陽炎や 頼重の
無念 やすらかに"
頼重院は静かな小さなお寺でした。
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小阪観音院に向かって歩いていると
幽玄な雰囲気の山門が現れました。
ピンク色の幟には、「由布姫ゆかりの
小阪の龍光山 観音院」と書かれています。
諏訪御料人は、本名は伝わっておらず、
「井上靖は小説「風林火山」の中では
諏訪御料人に「由布姫」はと名付けています。
山門の前には石碑が並んでいました。
この先の山門をくぐると、
杉並木が続いていました。
この杉木立を抜けると
諏訪湖が見えてきました。
井上靖の小説では、由布姫は勝頼を生んだ後、
この小阪観音院で療養していたという設定です。
これは丁度、諏訪氏の居城だった
上原城方向を眺めた様子です。
諏訪御料人が生まれ育ったお城です。
父である頼重を滅ぼした敵将の信玄の
側室となった諏訪御料人。
この風景を眺めていると、
その過酷な人生を振り返らずには
居られなかった事と思います。
本堂の観音院は急な階段を
登ったところにありました。
1238年(嘉禎4年)の古文書に
記録が残っているそうで
かなり古い時代からここに
堂宇が建てられていたようです。
本堂の観音堂は1644年(寛永21年)に修復され
1715年(正徳5年)に四代目・諏訪忠虎公
によって造営されてます。
この本堂の裏側に諏訪御料人・
由布姫の供養塔がありました。
この供養塔は井上靖の小説に基づき
昭和に入ってから作られたそうです。
諏訪御料人が亡くなったのは
1555年(弘治元年)11月6日とされています。
25歳程の若さだったようです。
諏訪御料人のお墓は高遠の
建福寺にあるそうで、是非そちらも
訪れてみたいものです。
供養塔には、数多くの花が供えられていました。
この諏訪御料人の供養塔からも
諏訪湖が見えていました。
諏訪御料人が亡くなってから27年後の1582年(天正10年)、
織田の軍勢がこの諏訪の地を駆け抜け、
諏訪御料人の長男・武田勝頼を甲州の東、
田野の地で攻め滅ぼしてしまいます。
どんよりと曇った諏訪湖の眺めは、
諏訪御料人の過酷な運命に
似つかわしいかったのかも知れません。
ちなみに、武田信玄・勝頼の事を記した
「甲陽軍艦」によると、信玄は遺言で
遺骸を諏訪湖に沈めるように命じたそうです。
その真偽は確かめられていませんが、
その地は、この小阪観音院の近くとされています。
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さすがに由緒ある神社だけあって、
鳥居とその奥の杜は威厳がある雰囲気でした。
この上社本宮は落葉樹の原生林に囲まれています。
鳥居を抜けるとすぐに御柱が立っていました。
本宮一之御柱と記されていました。
この御柱は社殿の四隅に建てられています。
この一の御柱が一番高い柱で、
高さは17mにもなるそうです。
この御柱は6年毎に立て替えられています。
御柱を切り出し、本宮まで運ぶ行事がお祭りとして催され、
切り出した御柱を坂道から落とす勇壮な神事で知られています。
一の御柱から一段上がったところに
上社本宮の社殿が建っていました。
この上社本宮の社殿配置は、
普通の神社とは変わっています。
北参道からは、拝殿が横を向いており、
東参道から入ると、社殿はなんと
背中を向いているような配置になっています。
諏訪大社は神体山も御神体としていますが、
この神体山にも横を向いています。
日も沈みかけ、殆ど人もいない
静かな境内を歩いて行きました。
こちらは宝物殿です。
この左手に勅願殿がありました。
諏訪大社は1582年(天正10年)に
織田信忠軍によって焼かれてしまいました。
その後、徳川家康によって再建され、
1831年(天保2年)から1838年(天保9年)にかけて
諏訪藩主によって現在残る社殿がされているようです。
この勅願殿は、1691年(元禄3年)の再建だそうです。
宝物殿と勅願殿の間から四の御柱が
見えたようですが、見過ごしてしまいました。
勅願殿の左側にある参拝所です。
一般の参拝客はこの奥には
立ち入る事が出来ませんでした。
この参拝所の奥に拝殿が建っていました。
幣拝殿の左右に、片拝殿と呼ばれる建物が続き、
本殿のない、諏訪大社特有の造りだそうです。
拝殿の左手にある堀重門です。
時間がなく、北参道からまっすぐに
拝殿を目指してしまいましたが、上社本宮には、
この他にも現存する最も古い建物の四脚門や
東宝殿や西宝殿という茅葺の神殿もあるようです。
今回は、これらの社殿を見逃してしまったので
またの機会にゆっくり訪れてみたいと思います。