大垣は、濃尾平野の北部に位置し、岐阜県第二の都市です。
江戸時代には大垣藩が置かれ、美濃街道の宿場町もありました。
意外なことに、というと大垣には失礼ですが、
2012年3月に養老鉄道に乗車し後に大垣を訪れ、
大垣駅は鉄道の要衝で、JR東海道本線、養老鉄道、樽見鉄道の
一日の乗降客数25,000人ほどで、駅ビルも立派でした。
この大垣駅前から南に向かうと大垣城があります。
大垣城を訪れた後、お城の東側に向かいました。
大垣城二之丸の東にあたる交差点の角に井戸がありました。
先ほどの自噴井戸からブラツキ通りという
大手門という名前の喫茶店の脇に碑が建ち、喫茶店の
大手門跡のすぐ東には煎餅屋さんがありました。
大垣は、江戸時代美濃街道の宿場町でもありました。
脇本陣跡から100m程南に向かうと、本町道標があります。
この碑が建つ場所は美濃街道と竹鼻街道の接続地点で、
本町道標から更に100m程南には問屋場跡がありました。
この問屋場跡から美濃街道は西に向きを変えています。
この本陣跡には1878年(明治11年)に明治天皇が宿泊し、
本陣跡から西に行った所にある和菓子屋さんです。
先ほどの和菓子屋さんから100m程西に行った所に
ここは大垣城の外堀と大垣城の西を流れる
美濃街道は京口門跡から水門川に沿って南に下ります。
そのすぐ南に船町港跡があります。
塔のような建物は、住吉燈台です。
船町港の標識と夜間の目印として元禄年間(1688〜1704年)に建てられました。
住吉燈台の対岸には松尾芭蕉の像がありました。
この船町港は、芭蕉の「おくのほそ道」の結びの地です。
蛤の ふたみにわかれ 行く秋ぞ
芭蕉が大垣で詠んだ句です。
船町港跡で美濃街道と別れ、水門川に沿って北に向かいました。
この年、たらいで水門川を下るイベントが、3月末に予定されていて、
水門川を遡り、10分程歩くと、圓通寺があります。
圓通寺は、1635年(寛永12年)に戸田氏鉄が尼崎から大垣に
境内に綺麗な梅が咲いていました。
この圓通寺には、藩主だった戸田氏の廟所があります。
陽が既に傾きつつある中、静かで厳かな廟所でした。
圓通寺で大垣の散策を終え、大垣駅に戻りました。
滾々と湧き出る水の量が多くて驚きました。
戸田氏8代藩主・戸田氏庸(うじつね)が、
大垣
Ohgaki, Gifu
揖斐川と支流の杭瀬川に囲われた土地に市街地があります。
明治以降は関ヶ原を控え、鉄道の要衝地としても栄えています。
松尾芭蕉の「おくのほそ道」の結びの地になっています。
大垣城と大垣の街を散策しています。
大垣城の散策記はこちらです。
駅が集まり、東海道本線も大垣で列車系統が分かれています。
名古屋方面の快速電車の起点になっていて、東海道本線の
電車の車両基地も置かれています。
撮影: 2012年3月
駅の周辺に、鉄道の街を象徴するように、貨物列車に
かつて連結されていた車掌車が展示されていました。
撮影: 2012年3月
大垣城は江戸時代に大垣藩の藩庁が置かれたお城です。
今では、本丸が残るだけですが、お城の周囲には
当時の史跡がいくつか残っています。
撮影: 2012年3月
「大手いこ井の泉」という自噴井戸です。
大垣は、市内にこうした自噴の井戸が
数多くあり、水の都としても知られています。
通りを東に向かうと東大手門跡があります。
撮影: 2012年3月
隣から奥に入った廣嶺神社の脇に馬の像がありました。
ちなみに大垣城には東と南の二つの大手門がありました。
このお煎餅屋さんは、当時の大垣宿の脇本陣でした。
撮影: 2012年3月
美濃街道は、熱田の宮宿から垂井宿に至る街道です。
街を東西に横切っていた美濃街道ですが、大垣城の東側では
北から南へと大垣城を迂回し、大垣城の南を通っていました。
撮影: 2012年3月
道標には、左右に江戸と京が示されています。
問屋場は、宿場で備える人馬の継立を行っていた所です。
撮影: 2012年3月
その先に、本陣跡があります。
撮影: 2012年3月
明治天皇行在所跡として史跡になっています。
大垣は、綺麗な湧き水で造られる和菓子、特に
水まんじゅうが有名で、いくつも和菓子屋さんがあります。
愛嬌のある人形のディスプレイが楽しかったです。
撮影: 2012年3月
大垣城西総門だった京口門跡がありました。
撮影: 2012年3月
水門川の合流地点に築かれていました。
水門川沿いに立つ船町道標です。
撮影: 2012年3月
ここは水門川の川湊だったところで、江戸時代には大垣と
伊勢を結ぶ物資と人の行き来を支える重要な拠点でした。
撮影: 2012年3月
住吉燈台の横の水門川には川舟が浮かべられ、当時の情景を再現しています。
撮影: 2012年3月
撮影: 2012年3月
1689年(元禄2年)の秋の事でした。
芭蕉は、「おくのほそ道」の旅を終えると、
この船町港から船に乗り桑名に向かいました。
川を眺めていると、大きな盥に乗った人が川を下ってきました。
撮影: 2012年3月
この日はその予行演習でもしていたのではないでしょうか。
眺めていると、とても楽しそうでした。
撮影: 2012年3月
移封になった際、菩提寺の圓通寺を移築して創建されたものです。
この山門もその時に建てられ、現在の山門は天保年間
(1830〜1844年)に再建されたものだそうです。
撮影: 2012年3月
1635年(寛永12年)に戸田氏として初めて大垣藩主となった
戸田氏鉄から幕末の藩主・戸田氏共まで11代のお墓があります。
撮影: 2012年3月
その途中、圓通寺の北にある大垣天満宮の
境内にも自噴水がありました。
撮影: 2012年3月
そして、その東側の大垣保健センターに
大垣藩校敬教堂跡の碑がありました。
撮影: 2012年3月
1840年(天保11年)に学問所を創設しています。
その後、致道館、敬教堂と名前を替えました。
ここは、大垣城辰之口門跡のすぐ近くです。