村上
Murakami, Japan








村上は新潟県北部の日本海に面した市です。

江戸時代には村上藩が置かれ、今でも
城下町の佇まいを色濃く残す街です。





市の中心部の北側を流れる三面川を
遡る鮭でも知れらているようです。

村上には2010年秋に市内を散策しました。
その時の様子を紹介します。



肴町から黒塀通り
(Sakana Machi to Kurobei Street)
May 05, '16


安善寺から若林家住宅
(Anzenji Temple to Wakabayashike House)
May 09, '16


武家屋敷と村上城門跡
(Old samurai Houses & Ruins of Castle gates)
NEW ! May 11, '16





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肴町から黒塀通り
(Sakana Machi to Kurobei Street)







2010年10月16日、新潟からの電車を村上駅で下車し、
村上の町の散策と村上城を訪れました。



この写真は、散策を終えて駅に戻った時に撮った写真です。
駅を降りてまずは北に向かって歩き出しました。




駅前の道から反れて最初の信号が肴町の交差点で、
交差点の角に手作りの木工品や竹細工の
お店や染物屋さんがありました。



この交差点の名前になっている肴町は
江戸時代初期に町が出来たそうで、
魚の専売権を免許された事に由来しています。



肴町の由来を示した案内板です。
村上の町にはこうした案内板が
整備されていて街歩きには重宝しました。


この肴町の交差点で右に折れ、
古い町並みの続く通りを進みました。



この通りに所々お店がありました。
そのうちの一つのお茶屋さんです。



こうしたお店には町屋商人会という幟が掲げられています。
古い佇まいの通りを維持していこうという
気持ちの表れでしょうか。

調べてみると町屋商人会のお店は
いつでも町屋の様子を見学出来るそうです。

こちらは小国町にある城下町情報館です。



こうした町を守っていく姿勢は
とても素晴らしい事と思います。


小国町の交差点を北に折れ寺町に入りました。
その名の通り、多くのお寺がありますが
そのうちの一つ浄念寺です。



村上藩主だった本多氏、榊原氏そして
間部氏の菩提寺だったお寺で、松尾芭蕉も
奥の細道紀行の折に訪れているそうです。

この浄念寺の本堂は珍しく土蔵造りです。



この本堂が国の重要文化財に指定されています。
本堂に向かう小路の脇にはウサギの置物がありました。



ピーターラビットのような感じで、
お寺には似つかわしくないものですが
なかなか可愛い置物でした。

こちらは間部氏の村上藩初代藩主となった
間部詮房の廟所です。



間部詮房は6代将軍となった徳川家宣の
甲府時代の家臣で、厚木藩主から高崎藩主を経て
1717年(享保2年)に村上藩主になっています。



家宣、新井白石と共に正徳の治を行っていましたが
家宣が1712年(正徳2年)に亡くなると後ろ盾を失い、
その後即位した吉宗に嫌われ、村上に移されたようです。

そしてこちらは浄念寺の西隣にある経王寺です。



この寺町は趣あるお寺や小路が残るエリアでした。



この東側には安善寺があり、そこに
続く小路を安善小路というようです。


この小路には黒い塀が続いていました。



城下町の佇まいを伝えようと、住民の方々が
寄付を行い、小路に黒塀を作ったそうです。

こうした取り組みは高く評価され、国土交通省の
「手づくり郷土賞」や「美しいまちなみ大賞」を
受賞しているそうです。



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安善寺から若林家住宅
(Anzenji Temple to Wakabayashike House)







昔の村上の城下町の佇まいを告げる
黒塀通りの途中に安善寺がありました。



安善寺の立派な楼門です。
安善寺が建立されたのは1655年(明暦元年)です。

この安善寺の辺りの佇まいもとてもいいものでした。
この先で、大町の通りに出ました。



この通りにも昔ながらのお店が幾つもありました。
上の写真左側は旅館「井筒屋」です。
1689年、松尾芭蕉と曽良が奥の細道紀行の際に
宿泊した「宿 久兵衛」跡だそうです。
上の写真右はお茶屋さんです。

そして下の写真は村上牛の料理店と酒屋さんです。



江戸時代、このあたりは村上城の西麓、追手門も近く、
江戸時代にも城下町が広がっていた事と思います、


この一角に「うおや」がありました。



村上鮭の加工・販売を行っているお店です。
1800年頃から鮭の元売り業を初めているようです。

村上の鮭は平安時代から名が知られ、
京都の貴族に献上されていたそうです。
その後、江戸時代に入って収穫高が減少したそうですが
村上藩の青砥武平次が鮭の回帰性を知り、別の川に
産卵場を設けて鮭の遡上数を増やしたそうです。

お店の中は公開されていて、塩引鮭に加工中の
数多くの鮭が干されているのを見ることが出来ました。



この鮭の姿は圧巻でした。


この後、大町を南に下り、村上市の
体育館あたりまでやって来ました。

ここに山頭火の句碑がありました。



1935年(昭和11年)に山頭火が村上を
訪れた際に詠んだ歌です。

この句碑から再び北に向かいました。

村上城が築かれていた臥牛山が
住宅地の間から見えていました。



村上市役所の北側の街角に
追手門跡の碑がありました。



江戸時代になって村上城が整備された際、
麓に藩主の居館や侍屋敷街が設けられたようです。





当時この追手門と臥牛山の間には侍屋敷が
広がっていましたが、そのいくつかが残っています。

そのうちの一つ若林家住宅を訪れました。



若林家は村上藩でも中級上位の家柄で、
150石の石高を拝していたそうです。



200年前に建てられた屋敷がそのまま残り、
今では国の重要文化財に指定されています。



この若林家の軒先にも塩引鮭が干されていました。



こちらは庭園です。



鶴の松、亀の松などをはじめ、
梅や躑躅などが植えられています。



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武家屋敷と村上城門跡
(Old samurai Houses & Ruins of Castle gates)







若林家住宅を訪れた後、まいづる公園に向かいました。
その途中にあった三の丸記念館と村上歴史文化館です。



どちらも明治時代の建物を資料館にしています。
こうした資料館を見るにつけ、村上の歴史や
史跡を大切にする姿勢が分かるような気がします。


まいづる公園に向かう途中に、
袋門跡の碑がありました。







袋門跡の前の通りの様子です。



写真左に細い用水路がありますが、これは、
当時三の丸を囲っていた堀かも知れません。

この50m程西側の小路には山辺里門跡の碑もあります。



この門碑はクランクした小路の角にありました。
当時は枡形門で、その跡がクランク状の
道として残っているのでしょうか。



山辺里門跡からの眺めです。
写真の後方がクランクしています。


こうして、まいづる公園に到着しました。
ここには移築された武家屋敷がいくつかあります。

公園の中にある表門です。



ここをくぐると二つの武家屋敷があり、
その左手が旧嵩岡家住宅です。



元々は今の村上市新町にあったものを移築し
1998年(平成10年)に公開したものです。

この嵩岡家は皇太子妃と所縁があり、
その縁で、この公園が整備されたそうです。



質素な室内からの眺めが印象的でした。

その隣が旧岩間家住宅です。



この建物が珍しいのは、江戸時代に長屋形式の
住宅を寄棟造りの建物に大改造されている点です。


まいづる公園にはやや離れた位置に
もう一つの武家屋敷が移築されていました。
旧藤井家住宅です。



江戸時代は250石の家臣・重野氏の屋敷でした。
明治になって病院に改築されていましたが
江戸時代のままに復元され、展示公開されています。


この、まいづる公園を訪れた後に、
村上城に向かいました。

その途中、吉田門跡を通りました。



麓の三の丸にはいくつもの城門があったようです。
吉田門も枡形門だったようで、その跡が
クランクの道として残っているようです。





ここから一旦戻り、旧成田家住宅に立ち寄りました。



この建物は妻側に玄関がある造りが特徴で
江戸末期から明治に掛けて建て替えられたと
考えられているようです。


そして、村上城址に向かうのですが、
もう一つ城門跡を通りました。



下渡門跡です。
この門も枡形門で、二棟の二重櫓が石垣の上に載り、
偉容を遺憾なく発揮していたと案内板に記されています。

門跡を示す案内板の近くには石垣が残っていました。



ちょっと自信がありませんが、
当時からの石垣でしょうか。

この石垣の手前には堀跡と思しき窪地が
村上城址のある臥牛山の方向に続いていました。



村上城址の登城口もいよいよ近づいてきました。
これからいよいよ村上城址に向かいました。

村上城の登城記はこちらです。





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