鳳来寺は、三河山地に聳える標高684.2mの
鳳来寺山にある真言宗のお寺です。
鳳来寺は利修仙人を開祖とし、
その歴史は702年(大宝2年)に遡る古刹です。
山頂付近に鏡岩と呼ばれる切り立った岩のある
鳳来寺山も昔から信仰を集めていたそうです。
また源頼朝が平治の乱で落ち延びた際に
この鳳来寺の医王院で匿われたことから、
鎌倉時代に源頼朝によって
再興されたとも伝わっています。
山は古くから信仰を集めており、
松平広忠公は正室・於大の方と共に
この鳳来寺に籠り、薬師如来に祈りをささげ、
その結果、家康を授かったと言われています。
家康が岡崎城で生を受けた時、
鳳来寺の仏像が忽然と姿を
消したとも言われています。
戦国時代には近郊の豪族、
菅沼氏から寺領の寄進があり、
江戸時代になると徳川家光公が
東照宮の造営や伽藍の改築を行ない、
寺領として1350石を授かったそうです。
しかし、明治以降は寺勢は衰え
多くの僧坊は廃れてしまいました。
この時は鳳来寺山の麓の雲竜荘に泊まりました。
将棋の名人戦も戦われた由緒ある旅館です。
雲竜荘からすぐのところに
鳳来寺の参道入り口がありました。
小さな集落の外れ、ここからは
深い森の中の参道を上っていきます。
鳳来寺山の参道には
1425段の石段が続いています。
参道は鬱蒼とした山間を行きます。
参道の石段も痛み、歩きにくくなっています。
参道の脇は、地元の中学校の生徒が
清掃活動をしているようで、
各学年毎の分担が記されていました。
かなり上った所まで中学校の
清掃区域になっているようで、
担当区域への往復だけでも、
かなりの上り下りになりそうです。
しばらく石段を上っていくと
仁王門がありました。
この仁王門は、徳川家光公の寄進により
1651年(慶安4年)に建てられたものです。
入母屋造、銅板葺きの朱塗りの楼門で、
国の重要文化財に指定されています。
山の中の立派な風格ある
仁王門には圧倒されました。
仁王門を過ぎると、
大きな杉がありました。
注連縄が巻かれた杉は傘杉と呼ばれ
樹齢800年、高さ60mの大杉です。
傘杉を過ぎても、鬱蒼とした
山間の石段を上っていきます。
石段の左右には、石垣で囲われた
古城の曲輪のような空き地がありました。
往時、参道の両脇にあった
僧坊の跡のようです。
草生した空き地に、僧坊の
名を記した石碑がありました。
道端で見つけた石仏と、
両側を石垣で囲われた石段です。
行き交う人も少なく、この石段が
永遠に続くような錯覚に陥ります。
やがて景色が開け、
下界を望む高台に出ました。
山間に見える麓の集落が雲竜荘のある
鳳来寺の集落で、かなりの高度を
上って来たことを実感します。
1425段の階段を上り終えると
本堂が建っていました。
急な石段が続き、かなり汗を掻きました。
鳳来寺の本堂の向こうには鏡岩と呼ばれる
垂直に切り立った岩壁が見えていました。
現在の本堂は1979年(昭和49年)に
再建されたものです。
切り立った鏡岩は、古来から
信仰の対象になっていたそうです。
本堂の上にある開山堂です。
この開山堂の脇から
奥の院への道が続いていました。
鏡岩の上に回り込むように
歩いていくと奥の院がありました。
小さな粗末なお堂です。
奥の院の先に岩場があり、
その先の視界が開けていました。
麓が一望に出来る、素晴らしい眺望です。
あまりに切り立った岩場で、
下をのぞく事も出来ませんでした。
谷から吹き上がる風が気持ち良く
汗も、すぐに引いてきました。
この鳳来寺山の深い森には、声の仏法僧と
言われるコノハズクが生息しているそうです。
この日は生憎、その鳴き声を聞くことは出来ませんでした。
小さな集落を抜けた所にある
鳳来寺のバス停です。
バス停の周囲には微妙に空き地が広がっていますが、
ここはかつて、豊橋鉄道田口線の鳳来寺駅でした。
この山深い集落にかつて鉄道が走っていたとは、
知識では知っていても、俄かには信じられません。
鳳来寺バス停近くからは、遠く
鳳来寺山を眺める事が出来ました。
標高684.2mの休火山です。
山頂にある鳳来寺奥の院まで1425段の
石段を上ってよく歩いたものだと思います。
鳳来寺には源頼朝や徳川家康に
纏わる逸話が残っていますが、
この麓の集落も歴史に纏わる場所です。
鳳来寺バス停近くには、
奥平仙千代処刑の地がありました。
奥平氏は現在の群馬県甘楽郡を基盤とする豪族で、
その後、三河に転住した奥平貞俊を初代とすると
5代目の貞能の頃には鳳来寺から西に直線距離で
10km程の作手の亀山城主になっていました。
虎之助は16歳、仙千代11歳そしてもう一人
日近奥平貞友娘で16歳の於ふうという
少女もこの時に処刑されたそうです。