松本
Matsumoto, Japan


松本は江戸時代に、松本藩が置かれた城下町です。

松本城周辺は松本市の中心地になり多くのビルが建ち
込めていますが、第二次大戦の被害を受けなかった為、
松本城天守をはじめ、今でも古い建造物が残っています。

女鳥羽川と簿川の作る扇状地に、街並みが発達していて
市内の至る所に湧水や井戸があります。
また県庁所在地ではないのですが、長野県第二の都市として
多くの行政機関や教育機関が置かれ、明治初期に建てられた
開智学校の校舎も今に残っています。

松本・湧き水巡り
(Springs in Matsumoto)
Aug. 21, '16


松本城
(Matsumoto Castle)
Sep. 16, '16


旧開智学校
(Former Kaichi School)
NEW ! Sep. 20, '16

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松本・湧き水巡り
(Springs in Matsumoto)


2010年10月19日、大糸線の電車で穂高まで往復し、
安曇野を散策した後に、松本に戻りました。

大糸線の乗車記は
こちらです。
安曇野の散策記はこちらです。


松本での目的は松本城の登城でしたが、その途中、
市内に幾つもある湧水の井戸を訪れました。


『松本・湧水地図』

松本・湧水地図

【註】 Yahoo地図に追記しています。
史跡名をクリックするとその説明の箇所にリンクしています。

牛つなぎ石 牛つなぎ石 大手門跡 大手門跡 大手門井戸 大手門井戸 蔵の井戸 蔵の井戸 四柱神社 四柱神社 辰巳の湧水 辰巳の湧水 東門の井戸 東門の井戸 北門の大井戸 北門の大井戸 柳の井戸 柳の井戸 葵の井戸 葵の井戸 地蔵清水の井戸 地蔵清水の井戸 松本神社 松本神社 旧開智学校 旧開智学校


『牛つなぎ石』

松本駅前の道を東に向かい、松本の町を南北に貫く
本町通に出ると、歩道に大きな石が置かれていました。


撮影: 2010年10月

この石は牛つなぎ石と呼ばれています。

1568年(永禄11年)、武田信玄が治めていたこの地に、
春日山の上杉謙信が送った塩を運ぶ牛車が、
ここに繋がれたと言われています。

当時、武田氏は南の北条・今川、北の上杉と
周囲を敵に囲まれており、今川・北条から
「塩留め」と呼ばれる経済封鎖をされていました。

この為、武田氏の領民は苦しんでいましたが、
上杉謙信の送った塩がこの窮状を救ったそうです。

『敵に塩を送る』という言葉は、
この時の上杉謙信の行動から出来ました。

上杉謙信の居城の春日山の登城記は
こちらです。




『大手門跡』

本町通を北に向かい、千歳(せんさい)橋で
女鳥羽川を渡りました。


撮影: 2010年10月

松本の市街を流れる女鳥羽川です。


撮影: 2010年10月

女鳥羽川という名前は、松本藩の藩主・水野忠直公が
1669年(寛文9年)に、父・忠職(ただもと)公のお墓を
妙義山山麓に作った際、妙義山から流れ出る渓流を
女鳥羽川と名付けた事に由来するそうです。

江戸時代には女鳥羽川のすぐ北側に松本城の惣堀があり、
千歳橋を渡ったところに大手門の桝形があったそうです。

松本城の登城記は
こちらです。




撮影: 2012年9月

桝形の跡は、クランク状の道となって残っています。
上の写真の左側に高麗門があったようです。

大手門跡を示す案内標識です。


撮影: 2012年9月



『大手門井戸』

大手門跡から大名通を北に向かうと、
大名町大手門の井戸がありました。


撮影: 2012年9月

この井戸は2007年に造られた新しい井戸です。
井戸の近くにはベンチもあり、松本駅から
松本城に向かう際、いい休憩場所にもなっています。

松本では「水めぐるの井戸整備事業」が行われ、
他にもいくつも井戸が掘られたようです。




『四柱神社』

千歳橋の袂の東側には繩手通がありました。
ここは、江戸時代の松本の町屋を復元しています。


撮影: 2010年10月

繩手という地名は、江戸時代にこの場所は
女鳥羽川と惣堀とに挟まれた縄の様に
細長い土手だった事に由来しています。

この繩手通を抜けると四柱神社がありました。


撮影: 2010年10月

四柱神社は明治になって創建された新しい神社です。

祭神は天之御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神
そして天照大神です。


撮影: 2010年10月

これらの神様は古事記の巻頭に記されていて、
遠い神話時代に日本古を築いたとされているようです。




『中町蔵の井戸』

四柱神社から女鳥羽川を挟んだ南側には
蔵造りの建物が多く残る中町があります。


撮影: 2010年10月

中町では1888年(明治21年)に大火があり、
1500戸もの家々が焼失したそうです。

この火事を教訓に、この周辺では
蔵造りの家が建てられたそうです。

その一角の蔵シック館は大禮酒造の建物を移築したそうです。
その蔵シック館に蔵の井戸がありました。


撮影: 2010年10月

今は懐かしい手汲み式のポンプがありました。
子供の頃、家の井戸にもこのポンプがありました。

蔵シック館から東に行ったところにも
古い町家がありました。


撮影: 2010年10月




『辰巳の御庭・辰巳の湧水』

蔵シック館から北に向かい、
女鳥羽川を中の橋で渡りました。

市街地の中に、整備された一角がありました。


撮影: 2010年10月

江戸時代には、ここには辰巳門があり、
辰巳御殿と呼ばれる藩主の御殿があったそうです。


撮影: 2010年10月

今は辰巳の湧水が整備されています。




『東門の井戸』

辰巳の御庭から北にちょっと入った所に
外濠小路と呼ばれる細い路地がありました。


撮影: 2010年10月

人が一人やっと通れる程の道幅です。
今はすっかり埋め立てられて跡形もないのですが、
江戸時代には惣堀が築かれていました。

ホテル花月の脇を抜けると、
古い蔵造りの建物がありました。


撮影: 2010年10月

この右手に、上土・下町会館があり、
そこが松本城の東門馬出跡になっています。

当時、松本城には4か所の馬出があり、
この東門馬出が最も大きなものだったようですが、
跡形も残っていないのは、寂しい限りです。


撮影: 2010年10月

その馬出跡に、井戸が湧いていました。

松本城の登城記は
こちらです。

『北門の大井戸』

東門の井戸から北に行くと、惣堀が
埋め立てられずに残っている所があります。

300mにも満たない距離ですが、お堀端に立つと、
当時の様子を思い浮かべることが出来ます。


撮影: 2010年10月

この惣堀の北の端は埋め立てられていますが
小公園の様になっていました。

その小公園に立派な井戸がありました。


撮影: 2010年10月

丁度、この辺りには江戸時代には北門馬出があり、
この井戸は北門の大井戸と呼ばれています。




『柳の井戸』と『葵の井戸』、『地蔵清水の井戸』

北門の大井戸から西に向かうと幾つか井戸が集まっています。
まずは北馬場町柳の井戸です。

ここも惣堀を埋め立てた所に
湧きだした井戸だそうです。


撮影: 2010年10月

この写真の左手に古い柳の木があり、
「柳の井戸」と呼ばれています。


柳の井戸から西に行ったところの路地を左に折れました。
この辺りは松本城の北に位置しています。

この細い路地の道端に小さな井戸がありました。


撮影: 2010年10月

これが葵の井戸です。
調べてみたのですが、井戸の
謂れは、判りませんでした。


葵の井戸の路地を南に進むと、
松本城の内堀に突き当たります。
突き当りを左に折れ、内堀に沿って東に
向かうと、地蔵清水の井戸がありました。

1582年(天正10年)に当時の深志城主・小笠原貞慶が
城下の整備に際し、この場所で井戸を掘らせたところ、
清らかな水とともに、お地蔵様が現れたそうです。


撮影: 2010年10月

この後、松本城に向かいました。

松本城の登城記は
こちらです。





『松本神社』

松本城を散策した後、すぐ北にある
松本神社に向かいました。

堀を越えたあたりは、葵の馬場と呼ばれる
馬場があり、以前は町名にもなっていた様です。


撮影: 2012年9月

当時の雰囲気を残す松本神社近くの様子です。

そしてこちらが松本神社です。


撮影: 2012年9月

城門のような立派な門構えの神社です。
この門の入り口にも井戸がありました。


撮影: 2012年9月

江戸時代、ここは暘谷大神社があり、
また松本城の北不明門もあったようです。

江戸時代の暘谷大神社は、松本城主の松平康長とその正室・
松姫を祀っていましたが、江戸中期に戸田氏先祖の戸田宗光、
三河田原の領主だった一色義遠、そして昭和に入り深志城の
築城者・島立貞永が合祀され、松本神社と改名したそうです。


撮影: 2012年9月

松本神社の本殿と西側の門です。
西側にあった門も立派なものでした。

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旧開智学校
(Former Kaichi School)

松本城の登城を終え、城の北にある
旧開智学校へと向かいました。

松本城から700m程の道のりですが、市内の湧水を訪ね歩き、
大きな松本城の天守に登った後で、少々遠く感じました。

開智小学校の奥に、目指す旧開智学校がありました。


撮影: 2010年10月

旧開智学校の正門は閉ざされ、西側から中に入る事が出来ます。
その前に、道路の反対側にある瀟洒な建物に立ち寄ってみました。


撮影: 2012年9月

この建物は旧司祭館です。
1889年(明治22年)に、松本カトリック教会の神父・
クレマンによって建てられた西洋館です。

入館は無料で、ここを訪れた後に旧開智学校に向かいました。


撮影: 2012年9月

旧開智学校は1876年(明治9年)に
建てられた学校です。

約90年間、校舎として使われた後に、
今の地に移築復元されたそうです。

元々この地にあったと思っていたので、
ちょっと意外でした。

2012年9月に訪れた際に、内部に入ってみました。
旧開智学校の玄関の様子です。


撮影: 2012年9月

ドアに綺麗な装飾がされていて、
学校という感じがしません。

2階に上がった教室の様子です。
ここも綺麗に整備されていて、重厚な部屋の
造りは教室だったとは思えない程です。


撮影: 2012年9月

開智学校は、松本藩の流れを汲む長野県下第一の
小学校だったようで、この校舎の建築にあたっては
当時の筑摩県権令・永山盛輝が肝煎りで行ったようです。

1880年(明治13年)に明治天皇・皇后が
巡幸された際に休憩所だった部屋だそうです。


撮影: 2012年9月

金屏風が飾られ、明治天皇・皇后の
銅版画が置いてありました。

こちらは復元された教室の様子です。


撮影: 2012年9月

オルガンの前に小さな机が並べられ、
この様子はどこにでもある小学校の
教室と変わりませんでした。

旧開智学校から少し北に向かうと、
江戸時代の武家屋敷が残っています。


撮影: 2010年10月

高橋家住宅です。

高橋家は、代々戸田家に仕え、1726年(享保11年)に
戸田光慈が鳥羽から松本に移封された際に、
藩主に伴って松本に移っています。

残念ながらこの高橋家住宅は、土・日のみの公開で
2010年に訪れた際には閉まっていました。

この高橋家住宅から西に進むと、
住宅地の中に賢忠寺跡の碑がありました。

賢忠寺は1642年(寛永19年)に松本城主となった
水野忠清が父・忠重の霊牌安置の場所として、
この地にお寺を建てたそうです。


撮影: 2010年10月

水野忠重といえば、家康の母・於大の方の兄で、
家康がまだ松平姓を名乗っていた頃に三河一向一揆を
一緒に戦い、その後信長、秀吉に仕え、秀吉の死の後に、
再び家康に仕えた武将です。

境内跡には、首貸せ地蔵尊がありました。

この地蔵尊は水野氏が三河の地から運んだもので、
子供の身代わりとなった地蔵尊の首を借りて
お願いすると、子供の病気が治るとの
言い伝えがあるそうです。

その更に西側には大日堂がありました。


撮影: 2010年10月

1551年(天文20年)に小笠原長時が
ここで戦勝祈願したと伝わるそうです。

この時の戦いでは、村上義清の応援を受け、
野々宮で武田軍と戦い、緒戦で勝利したようですが、
その後、小笠原長時は半年にわたる籠城の後に、
歴史の舞台から消えてしまったようです。

松本は、城下にも長い歴史を伝える史跡が
残っていて、楽しい散策になりました。

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