松本城の登城を終え、城の北にある
旧開智学校へと向かいました。
松本城から700m程の道のりですが、市内の湧水を訪ね歩き、
大きな松本城の天守に登った後で、少々遠く感じました。
開智小学校の奥に、目指す旧開智学校がありました。
旧開智学校の正門は閉ざされ、西側から中に入る事が出来ます。
その前に、道路の反対側にある瀟洒な建物に立ち寄ってみました。
この建物は旧司祭館です。
1889年(明治22年)に、松本カトリック教会の神父・
クレマンによって建てられた西洋館です。
入館は無料で、ここを訪れた後に旧開智学校に向かいました。
旧開智学校は1876年(明治9年)に
建てられた学校です。
約90年間、校舎として使われた後に、
今の地に移築復元されたそうです。
元々この地にあったと思っていたので、
ちょっと意外でした。
2012年9月に訪れた際に、内部に入ってみました。
旧開智学校の玄関の様子です。
ドアに綺麗な装飾がされていて、
学校という感じがしません。
2階に上がった教室の様子です。
ここも綺麗に整備されていて、重厚な部屋の
造りは教室だったとは思えない程です。
開智学校は、松本藩の流れを汲む長野県下第一の
小学校だったようで、この校舎の建築にあたっては
当時の筑摩県権令・永山盛輝が肝煎りで行ったようです。
1880年(明治13年)に明治天皇・皇后が
巡幸された際に休憩所だった部屋だそうです。
金屏風が飾られ、明治天皇・皇后の
銅版画が置いてありました。
こちらは復元された教室の様子です。
オルガンの前に小さな机が並べられ、
この様子はどこにでもある小学校の
教室と変わりませんでした。
旧開智学校から少し北に向かうと、
江戸時代の武家屋敷が残っています。
高橋家住宅です。
高橋家は、代々戸田家に仕え、1726年(享保11年)に
戸田光慈が鳥羽から松本に移封された際に、
藩主に伴って松本に移っています。
残念ながらこの高橋家住宅は、土・日のみの公開で
2010年に訪れた際には閉まっていました。
この高橋家住宅から西に進むと、
住宅地の中に賢忠寺跡の碑がありました。
賢忠寺は1642年(寛永19年)に松本城主となった
水野忠清が父・忠重の霊牌安置の場所として、
この地にお寺を建てたそうです。
水野忠重といえば、家康の母・於大の方の兄で、
家康がまだ松平姓を名乗っていた頃に三河一向一揆を
一緒に戦い、その後信長、秀吉に仕え、秀吉の死の後に、
再び家康に仕えた武将です。
境内跡には、首貸せ地蔵尊がありました。
この地蔵尊は水野氏が三河の地から運んだもので、
子供の身代わりとなった地蔵尊の首を借りて
お願いすると、子供の病気が治るとの
言い伝えがあるそうです。
その更に西側には大日堂がありました。
1551年(天文20年)に小笠原長時が
ここで戦勝祈願したと伝わるそうです。
この時の戦いでは、村上義清の応援を受け、
野々宮で武田軍と戦い、緒戦で勝利したようですが、
その後、小笠原長時は半年にわたる籠城の後に、
歴史の舞台から消えてしまったようです。
松本は、城下にも長い歴史を伝える史跡が
残っていて、楽しい散策になりました。