飛騨古川は、岐阜県の北部に位置しています。
2006年2月に古川町、河合村、宮川村、神岡町の
2町2村が合併し、飛騨市となっています。
飛騨というと、古い町並みの残る高山が
有名ですが、この飛騨古川にも
古い町並みが残っています。
線路の200m程南に、街中を瀬戸川が流れ
壱之町、二之町そして三之町と町並みが続いています。
2010年2月に、飛騨古川の街を散策しました。
その際の様子を紹介しようと思います。
訪れたのは2月。
冷たい雨が降り、町は無く静かでした。
200m程南に向かうと、
円光寺の山門が見えてきました。
円光寺は1514年(永正11年)に
建立された浄土真宗のお寺です。
この山門は1695年(元禄8年)に、
増島城の城門を移築したものだそうです。
円光寺の境内の角には街中を
流れる小さな川が流れていました。
この小川が瀬戸川です。
戦国時代末期に増島城の城主となった金森氏が
この地の新田開発の為に築いたそうです。
瀬戸川に沿って白壁の土蔵の建物が続き
江戸時代を彷彿とさせる町並みです。
ここで右に折れて、まつり広場を目指しました。
しばらく、円光寺の境内の縁に沿って、
狭いところを歩いて行きました。
春から秋にかけて、瀬戸川には鯉が放流され
多くの観光客で賑わうそうですが、冬のこの時期は
さすがに訪れる人も殆どいませんでした。
円光寺の本堂の脇を抜けて行きます。
ここを抜けると、広い空間に出ました。
円光寺の正面は「まつり広場」です。
飛騨古川は毎年4月19日・20日に行われる
古川祭りでも知られているそうです。
各町内の山車が繰り出され、また
起し太鼓はとても勇壮なお祭りの様です。
この広場では、その起し太鼓が行われるそうです。
広場には起し太鼓も展示されていました。
4月19日の夜、櫓の上に置かれた大太鼓を目指して
12組の付け太鼓が、先陣争いするそうですが
その様子はとても勇壮だそうです。
展示されていた大太鼓です。
この広場の一角に、上人塚がありました。
上人塚は、飛騨の匠文化館の場所にあった
福全寺の中興の祖、快存上人の墳墓です。
快存上人は、戦国時代末期に金森可重が増島城と
城下町の造成を始めた際に瀬戸川を開いた人です。
上人のお墓は古墳の上に置かれているそうですが
この雪に覆われ、どれがお墓か、判りませんでした…
まつり公園の向かいにある飛騨の匠文化館です。
飛騨古川に残る古い建築技術を遺す為に
建てられたそうですが、この建物には
釘が一本も使われていないそうです。
この先には飛騨古川まつり会館もあったのですが
そこには入らず、瀬戸川沿いの道を引き返し
飛騨古川の町の散策を続けました。
円光寺は1514年(永正11年)に
建立された浄土真宗のお寺です。
1603年(慶長8年)に正覚寺という寺名を授かり、
1621年(元和7年)に今の地に移っています。
今の円光寺と改称したのは1712年(正徳2年)です。
円光寺の本堂です。
本堂は1667年(寛文7年)に建てられたものです。
本堂の妻には亀の彫刻が飾られているそうです。
この亀の彫刻は、旅の老人から火災の難から
逃れられると聞いて飾られたものだそうですが、
1904年(明治37年)に起こった古川の大火でも
この本堂は類焼を免れたそうです。
円光寺を訪れた後、瀬戸川に
沿って東に向かいました。
側溝の様な小さな瀬戸川に沿って
白壁の土蔵の建物が続いています。
こちらは国の文化財に指定されている
由布衣工房です。
織りの工房で、染めものや
手織りの体験も出来るそうです。
この先に本光寺がありました。
堂々とした本光寺の山門と本堂です。
境内には、小説『あゝ野麦峠』を記念した碑もありました。
飛騨からは野麦峠を越えて、多くの若い女性が
信州の製糸工場に出稼ぎに行ったそうです。
本光寺の近くを流れる荒城川です。
この荒城川に沿って歩いて行くと山車蔵がありました。
三之町上組の清曜台の山車蔵です。
江戸時代の文政初年(1818年)頃に創建され
昭和に入って改修されているそうです。
その先に真宗寺がありました。
三寺まいりのお寺の一つです。
真宗寺の近くでは荒城川が
宮川に合流していました。
この日は小雨の天気でしたが、
一面の雪景色は冬の光景そのものでした。
暫くこの景色を眺めていましたが
身体も冷えて来て、駅に戻る事にしました。
その途中でいくつかの山車蔵を見つけました。
こちらは三之町下組の白虎台の山車蔵です。
白虎台は1831年(天保13年)に造られた山車です。
こちらは二之町中組の金亀台の山車蔵です。
金亀台は1830年(天保12年)に造られています。
古川には全部で9台の山車があり、4月19日・20日の
古川祭の際には町中を引き回されるそうです。
途中で見かけた酒屋さんです。
飛騨古川の駅に向かう途中で
増島城に立ち寄る事にしました。