ソウル郊外
(Seoul Suburb)
ソウル郊外仁川(Incheon)国際空港に降り立ち、
街中に向かう時、目に飛び込んできたのは
真新しい高速道路と高層アパート群です。
韓国は思ったよりも近代化が進み、
またソウルへの一極集中が進んでいる様子で、
ソウル近郊はどこも高層アパート群で
溢れていました。
近郊の農村地帯と思しきところにも
高層アパート以外の住居が見当たらず、
ちょっと異様な景色です。
ソウル市街に近づくと高速道路は大渋滞。
漢江(ハンガン)を越え南山(ナムサン)公園の
下をくぐるトンネルをくぐり、
ソウルの中心部に入ってきました。
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南大門
(Kyongbokkung)
ソウルは李朝成立後、朝鮮王朝の首都。
王宮は今のソウル市内の北にある
景福宮(Kyongbokkung)です。
その景福宮の周囲には長さ18km、
高さ12mの城壁が取り囲んでいて
城壁の東西南北には4つの大門が
設けられていたそうです。
これはソウル駅近くにある南大門です。
正式名称を崇礼門というそうで、
1398年に創建されました。
現在の南大門は幅の広い道路に囲まれて
威厳たる姿を保っています。
韓国の国宝第1号に指定されていた南大門ですが、
2008年2月に惜しくも焼失してしまいました。
2010年から復元工事が始まり、2013年4月に
以前のような見事な姿が復活しているそうです。
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昌徳宮
(Changdeokgung)
ソウル市内の北側には朝鮮王朝の正宮だった
景福宮(Gyeongbokung)や離宮・昌徳宮(Changdeokgung)、
昌慶宮(Changyoungung)の遺構が残されています。
秀吉の朝鮮出兵や第二次世界大戦前の朝鮮併合時代に
これらの王宮の多くの建物は破壊されていますが、
今はその多くが復元されているようです。
2003年6月、ソウルに出張に行った際、
時間があったので、昌徳宮と昌慶宮それに
歴代皇帝の位牌が祭られているという
宗廟(Chounmyo)に行ってきました。
まずは、昌徳宮に行きました。
昌徳宮は1405年に造営された離宮です。
13万5千坪という広い敷地に
多くの宮殿の建物が点在し、
その背後には庭園が広がっています。
昌徳宮の正門は敦化門です。
往来の激しい通りに威厳とした門構えを示していました。
雑然としたソウルの街並みにこの敦化門が現われると、
周囲の雰囲気も一変し、近代都市ソウルに
歴史の香りが漂ったような気がしました。
この昌徳宮は、ツアーに参加して見学する事になります。
韓国語でのツアーの他にも、英語や
日本語のツアーも日に数回あります。
敦化門でしばらく待つうちに、運良く日本語の
ツアーが始まり、それに参加しました。
敦化門から入り、しばらく先の石橋を渡ると、
昌徳宮の建物群が見えてきます。
石橋から続く石畳の広い道は、中央の石畳が周囲よりも
高くなっていて、その中央部は更に高くなっています。
中央の部分は王様だけが歩く事を許された王道で、
その脇の部分は大臣等の陪臣が歩いたところだそうです。
最初に現われた建物は仁政殿です。
立派な回廊に周囲を囲われています。
仁政門を抜けるとその全容が現われました。
正門の敦化門もそうでしたが、
昌徳宮の建物は赤や緑の鮮やかな色に塗られ、
当時の様子をそのまま今に伝えているようです。
広々とした敷地内に建つ威風堂々とした建物に
思わず圧倒される一方で何処となく大陸的な
と言った印象を持ちました。
これは少し離れたところから見た仁政殿です。
甍の波の向こうにひときわ大きな
仁政殿の建物が聳えていました。
仁政殿の奥には宣政殿、熙政堂そして大造殿と続きます。
大造殿は王と王妃の寝殿だった建物です。
写真を良く見ると、この大造殿には普通の建物の
屋根の頂上部分に乗っている棟瓦がありません。
これは韓国では棟瓦を「龍棟」と呼び、
また龍を最も尊いものの象徴としているそうですが、
高貴な国王の寝る建物の上に、龍を置く事は
国王に対し礼を失すると考えられた為だそうです。
そしてこの建物は楽善斎です。
今まで見てきた威風堂々とした建物と違って
この建物はどことなくひっそりとした感じがします。
19世紀半ばに後宮の処所として建てられた為でしょうか。
この建物には1989年まで、朝鮮王朝最後の皇太子妃・
李万子女史が実際に暮らしていたそうです。
そして昌徳宮の建物の裏側には、
広大な庭園が広がっています。
その名も後苑というそうです。
小高い丘全体が庭園になっていて、深い森の中に
池やそれを見下ろす建物が配置されています。
ガイドブックなどで紹介される後苑の
最も有名な場所は芙蓉池と
その渕に立つ芙蓉亭と思います。
楓の木が茂っていて、紅葉の季節には
きっと印象に残ると思うのですが、
初夏の時期は、今ひとつの印象でした。
後苑で最も気に入ったのは、後苑の奥にある
木々の間から見た何気ない景色でした。
木の香りが漂う様な、とても静かな雰囲気で
ソウルの街中にいるのを忘れてしまいそうでした。
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宗廟
(Chounmyo)
昌徳宮の後に、宗廟に向かいました。
宗廟は朝鮮王朝の歴代国王と王妃の
位牌を祭ったところです。
建立は14世紀末のことです。
宗廟は門前にお土産物屋が建ち並び、
韓国各地からやって来たと思われる
お年寄りの団体が居たり、辺りに
線香の様な香りが漂っていました。
ツアー形式で限られた観光客を
入場させている昌徳宮と異なり、
どことなく庶民的な感じが漂っていました。
でもその庶民的な印象も正門から奥に入り、
宗廟の正殿を目の当たりにすると
その印象は一変してしまいました。
門をくぐり正殿の囲いの中に入ると、
急に厳かな雰囲気になりました。
正殿の囲いの中は石が敷き詰められ、
その向こうに正殿の長い建物が建っていました。
正殿は特に高徳のあったとされる
49の王・王妃の位牌を祭ったものです。
それ以外の王・王妃の位牌34位は、
その奥の永寧殿に祭られています。
永寧殿の建物も正殿と同じような造りでした。
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昌慶宮
(Changyoungung)
宗廟の一番奥にある後門は昌慶宮につながっています。
門を抜け、車の往来の激しい道を橋で跨いでいくと
昌慶宮の建物が姿を現しました。
木々が生い茂る宗廟とは異なり、広々としています。
綺麗な芝生が広がり、吹き抜ける風も爽やかでした。
昌慶宮の正殿は明政殿です。
この建物も石畳が敷き詰められています。
この明政殿の建物は1483年に建立され、
1592年の文禄慶長の役(豊臣秀吉の朝鮮出兵)で消失し、
1616年に再建されたものだそうです。
訪れる人も少なく、とても
静かに時間が過ぎていきます。
普段の暮らしの中とは全く異なるの時間の進み方。
400年前の当時に惹きこまれそうな不思議な一時でした。
これは、明政殿の奥にある通明殿と
養和堂を眺めたものです。
そして、これは昌慶宮の正門、弘化門です。
この門も1592年の文禄慶長の役で消失し、
1616年に再建されたものだそうです。
ソウルに残る韓国の歴史ある王宮跡を見ていると、
豊臣秀吉の朝鮮出兵や第二次大戦前の朝鮮併合時に
これらの多くの建物が破壊されている事がわかります。
京都御所や法隆寺、東大寺や清水寺といった
日本の伝統的な建物がもし他国の侵略者によって
破壊されていたら、その国に対してどういう
感情を抱いたか、と思わざるを得ません。
日本と韓国の関係や韓国の人の日本人に対する感情は、
このところ好転しているようです。
でも、日本と韓国が友好国として、本当に
わだかまりなく付き合える様になれば、と思いました。
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景福宮
(Gyeongbokung)
ソウル市の中心にあるソウル市庁舎から、
幅の広い大通りを北に進むと李朝時代に
正宮だった景福宮に辿り着きます。
景福宮に向かう途中の様子です。
ソウル市の北に聳える白岳山の下に
景福宮の正門だった光化門が小さく見えています。
景福宮は1395年に創建され、首都を
開京(現・開城)からこの地に移しています。
現在ソウルには5つの大きな故宮があるそうですが、
その中では最大、416,990平方mもの広さがあるそうです。
1592年に、秀吉による文禄・慶長の役で焼失し、
その後、273年間復元されなかったそうですが、
1868年に創建当時の規模に復元されたそうです。
大通りの端に光化門が見えてきました。
この光化門は、1395年に建てられた門が
20世紀になっても残っていたそうですが、
日韓併合の際に解体移築されています。
1950年の朝鮮戦争の際に焼失しましたが
1968年に現在地に復元されています。
光化門をくぐって眺めた様子です。
光化門を抜けて正面に進むと興礼門が現れます。
正門にあたる光化門と正殿・勤政殿を結ぶ
南北の中心軸線上に位置しています。
この興礼門も日韓併合の際、旧日本軍が
朝鮮総督府をこの地に建てた為、壊されています。
復元されたのは2001年10月の事だそうです。
興礼門を抜けると、興礼門と同じような
外観の勤政門がありました。
勤政門は普段は閉じられ、国家の大きな行事が
あった時にだけ開けられていたそうです。
当時は興礼門と勤政門の間に近衛兵が配置され
景福宮の警護をしていたそうです。
勤政門を抜けるといよいよ勤政殿に辿り着きました。
緑と赤の塗り分けが鮮やかでした。
この勤政殿も1395年に創建されています。
秀吉による朝鮮出兵(文禄・慶長の役)で焼失し、
その後、1867年に再建されています。
勤政殿の内部には玉座というのでしょうか、
朝鮮国王が座った椅子も復元されていました。
とても煌びやかなものでした。
勤政殿の北側には思政殿や康寧殿、欽敬閣を
はじめとして多くの建物が復元されています。
この辺りは国王の執務や会議、
または住居として使われていた所です。
そのうちの一つの含元殿です。
ここは仏教に関する行事を行っていたと伝わります。
現在の建物は1995年に復元されたものだそうです。
この辺りから西に向かうと池の中に浮かぶ慶会楼があります。
この慶会楼は国王と臣下が出会う場所として
1412年に建てられたそうです。
文禄・慶長の役で焼失した後、
1867年に現在の姿に再建されました。
池の右手には、政庁や国王の住居として
使われた多くの建物が見えています。
この様子も圧巻でした。
さらに景福宮の北側に向かうと、
池の中に六角形の東屋が建っていました。
政庁の威風堂々とした雰囲気はなく
綺麗な庭園という佇まいです。
ここは香遠亭と呼ばれ、1867年に散策を
楽しむためにこの庭園が造られました。
香遠亭から景福宮の東に向かうと
国立民族博物館があります。
高台に建てられた仏教寺院の様な佇まいです。
実際、韓国の代表的な寺院などの伝統的な
建築様式を模して建てられたものだそうです。
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西大門刑務所歴史館
(Seodaemon Prison History Museum)
ここは、日本の暗い歴史を伝える場所です。
ソウルの街の西、朝鮮王朝の時代に西大門があった辺りに
この西大門刑務所歴史館はあります。
ここは日本が朝鮮を支配下に置いていた1908年に築いた監獄です。
植民地時代の独立運動家らを拷問にかけ死に至らしめた場所です。
一見、洒落た感じにも見えそうな赤い煉瓦の建物ですが、
この西大門刑務所歴史館の建物は、戦前の日本の
犯した罪を引きずるように暗く悲しいものでした。
当時の日本が何をしたのか、辺の国々から
日本がどのように見られているのか
我々日本人も、もっと良く知る必要があると思います。
軍部の暴走を抑えきれずに、周辺諸国を侵略し
挙句の果てには国を滅ぼす事になった戦前の日本。
戦前の日本が何をし、その教訓として戦後何が遺されたのか。
今一度、歴史を良く知っておく必要があると思います。
戦時中には、こうした監獄が朝鮮半島内に
28か所も作られたそうです。
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Hotel Information
The Westin Chosun
87 Sokong-dong Chung-ku Seoul
100-070 Korea
Tel: (+82) 2-771-0500
Fax: (+41) 2-752-1443
URL:
www.westin.com
E-Mail: email@westinchosun.co.kr
ソウル市庁近くに建つ韓国でも
指折りの超高級ホテルです。
ホテルは朝鮮王朝の別宮跡に建てられてそうで、
ホテルのすぐ隣には李朝最後の皇帝が建立した
お寺が今も残っています。
Seoul Plaza Hotel
23-2 Ga Taepyeong-no, Jung-gu, Seoul
100-864 Korea
Tel: (+82) 2-771-2200
Fax: (+41) 2-755-8897
URL:
www.seoulplaza.co.kr
E-Mail: email@westinchosun.co.kr
ソウル市庁前に建つ高級ホテルです。
2002年のワールドカップの時には
ソウル市庁に大型スクリーンが設置され
韓国戦の時は、このホテル前には
数百万のサポーターが集まったそうです。
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