|
|
|
鹿島鉄道は1924年(大正13年)に
鹿島参宮鉄道として開業した私鉄です。
営業区間は石岡から鉾田までの27.2kmです。
石岡から鹿島神宮への参拝客を
運ぶ目的で作られた路線です。
開業当初は石岡から常陸小川までの7.1kmで、
その後、小刻みに路線延長を行っていたのですが、
1929年(昭和4年)に鉾田まで
延伸した以降は路線延長はされず、
鹿島神宮への乗客は
霞ヶ浦を船で運んでいたようです。
鹿島参宮鉄道は、1965年(昭和40年)に
常総筑波鉄道と合併し関東鉄道となり、
1979年(昭和54年)に今度は鹿島鉄道として
関東鉄道から独立して今日に至っています。
常磐線の電車を石岡で下り、
鹿島鉄道のホームへと向かいます。
丁度、16:09発の常陸小川行きが
発車するところですが、
これを見送りました。
次の列車は16:29の鉾田行きです。
日中は鉾田行きと常陸小川行きが
概ね交互に運行されていて、
鉾田行きは一時間に一本程の運転頻度です。
構内には、夕張鉄道から来たという
古い形式のディーゼルカーが留置されていますが、
運行されているのは、レールバス
のような新型ディーゼル車です。
帰宅途中の高校生を中心に
車内は立ち客が出ています。
エンジン音を響かせて定刻に発車しました。
この日は気温があがり、開けた窓から
気持ちいい風が車内に入ってきます。
発車してしばらくは住宅が建ち並ぶ中を走ります。
駅に着くたびに、高校生が下車していき、
車内が次第に静かになって行きました。
玉里駅で上り列車と交換しました。
二つ先の四箇村を過ぎると
丘陵地を行くようになり、
のどかな景色が車窓に広がりました。
下り坂となり、エンジンはアイドリングの音となり、
この景色の中を勾配を軽快に下っていきます。
勾配を下り平野に出ると常陸小川です。
のどかな駅ですが、多くの列車がここで折り返す、
鹿島鉄道の中では主要駅となっています。
多くの乗客が下車し、車内も
一気に寂しくなってしまいました。
常陸小川を出ると、水田の
広がる中を走っていきました。
線路の両側は田植えを目の前に
水を張った水田で、その間を
線路が続いています。
線路には雑草が生えていて、
まるで緑の絨毯の上を行くようです。
やがて車窓右手に霞ヶ浦が見えてきました。
傾いた西日に湖面が輝いています。
霞ヶ浦を背景に水田に、
屋敷杜に囲まれた集落の様子。
開け放たれた窓からは、
爽やかな風が吹きぬけ、
普段の暮らしでは、なかなか
味わえない時間が過ぎていきます。
そして、再び霞ヶ浦と水田に輝く西日の様子です。
いつまでもこの景色を見ていたいと思っていました。
浜駅を過ぎると、左に大きく曲がり、
霞ヶ浦と別れを告げ、
丘陵地帯を走って行きます。
丘陵地が開けると、玉造町です。
列車交換が出来る駅の構造です。
駅の構内に古い倉庫が建ち、
以前は貨物輸送をしていた名残のようです。
玉造町を出ると、再び丘陵地帯を走るようになりました。
エンジンの音を響かせながら勾配を上ります。
ゆるやかに起伏する丘に広がる畑や
雑木林を眺めながら走って行きます。
線路の周囲には人家も少なく、
もとより車内にも僅か数人の乗客しかいません。
人々の営みから忘れ去られて
しまったように列車が走って行きます。
この鹿島鉄道は、経営状態が厳しく、
廃止申請が出されているようです。
車窓から、この昔懐かしい景色を
眺められる鹿島鉄道ですが、
交通機関としての厳しい現実には
胸が痛みます。
丘陵を抜けると、巴川です。
ここも列車交換が可能な駅で、
上り列車が、僕の乗った列車の
到着を待っていました。
巴川からは再び、平野を走ります。
倒産したボーリング場が線路際に見え、
あまり活気が見られないような車窓風景です。
やがて、久しぶりに大きな集落が現れ、
行き止まりの線路が見えてきました。
終着の鉾田駅です。
石岡から27.2kmの距離を
52分かかって走ってきました。
この素晴らしい車窓風景の
鹿島鉄道には、多くの人に利用され、
いつまでも走り続けて欲しいのですが、
それは、叶わぬことなのでしょうか。
|
|
|