角館
Kakunodate, Japan







角館は東北の小京都と称され、
古い佇まいを残した町です。

角館は秋田県南部、JR田沢湖線沿線にあります。
2005年に町村合併があり、仙北市に属しています。





角館の古い町並みは、桧木内川の畔、
古城山の麓に連なる城下町の武家屋敷跡です。

現在残る町並みは、1620年(元和6年)に蘆名氏が築いたもので、
1976年に重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。

この角館はまた桧木内川沿いの桜並木も有名で
年間を通じて200万人もの観光客が訪れるそうです。


この角館には学生時代に訪れていますが、
2009年秋に再訪しました。

その時の様子を紹介します。





角館城下町 (1) 東勝楽丁



角館の城下町は古城山の南の麓に広がっています。

古城山の角館城は築城がいつだったか
はっきりしていない程古くから存在し、
1424年(応永31年)から戸沢氏の居城でした。

戸沢氏当時は、古城山の北側に家臣団の屋敷が
広がっていたそうですが、桧木内川の氾濫や
度重なる火災などによって、1620年(元和6年)に、
町を現在の古城山の南麓に移したそうです。

角館城 (小松山城)の登城記はこちらです。



古城山近くに家臣らの屋敷を配し、土塁で築いた
火除けの南に町人町や寺町を築いたそうです。


角館駅で仙台からの秋田新幹線「こまち」を降り、
約1km程歩くと角館の武家屋敷にたどり着きました。

火除けの土塁は見当たりませんでしたが、
当時の武士屋敷跡に足を踏み入れると、
広い通りに黒い板塀が続く景観となりました。



思いがけず広い通りですが、
江戸時代初期に町を引っ越した際、
火災対策として道が広げられたようです。

武家屋敷跡に入り、すぐ左手にあった
小田野家に入ってみました。



小田野家は、1656年(明暦2年)角館に入った
佐竹北家に仕えた中級武士だったようです。

この小田野家の屋敷は1900年(明治33年)の
火災で類災し、建て直されたものだそうです。



しかし、この佇まいは江戸の
雰囲気をよく伝えています。

秋の日差しを受け、屋敷の中の木々が作る
深い陰影のある小田野家の庭です。



この庭を通ると隣の河原田家に行くことが出来ました。



河原田家の堂々とした門の様子です。

この河原田家は蘆名氏時代からの家臣で、
江戸当時の石高は100石だったそうで、
明治に入ってからこの東勝楽丁に
移り住んだそうです。



この河原田家も明治に入って
再建されたものだそうです。


河原田家を出たところから眺める
東勝楽丁の佇まいです。



河原田家から北に向かうと岩橋家です。



岩橋家も蘆名氏時代からの家臣です。
蘆名氏時代は300石だった家禄が佐竹北家の
組下になってからは86石だったようです。

この岩橋家の屋敷は1900年(明治33年)の
大火で焼けることなく残っているそうです。



元々は茅葺屋根だったそうですが、
大火の直前に木羽葺きに葺き替えており
それが類焼を免れた要因という事です。



岩橋家の土間の様子です。
下の写真は、座敷の様子です。



座敷の前には枝垂れ桜がありました。



秋の日を浴び、穏やかな景色でした。
岩橋家の庭には樹齢300年の柏の木もありました。





角館城下町 (2) 表町



岩橋家を出て、さらに北に向かうと
角館の武家屋敷を貫くメインの
通りは枡形になっていました。



枡形は折れを作り、敵の侵入を防ぐ構造です。
この角館の町が築かれたのが、豊臣家が滅びた後の
1620年(元和6年)の事ですが、さすがに城下としては
このような防御が必要だったのでしょう。

枡形の北に延びる武家屋敷の通りです。



この辺りも黒い板塀が続き、所々に
広い屋敷の立派な門が構えています。

この通りの右側に青柳家がありました。



青柳家は格式の高い薬医門を持つ立派な屋敷です。
青柳家の敷地の広さは3000坪もあるそうです。
この薬医門は幕末の1860年(万延元年)建立です。
門の手前には駒繋石もありました。

訪れた2009年秋は、生憎、母屋は修復中でした。



母屋も薬医門と同じ頃に建てられたと
考えられているようです。

青柳家には土蔵造りの武器庫もありました。



これはその武器庫の入り口の様子です。



外から眺める武器庫の様子です。
広い青柳家には、郷土館や資料館など
いくつもの建物が建ち、多くの観光客がいました。

その広い庭の傍らにあった池の様子です。



観光客で賑わってはいたものの、
こうした光景は心休まります。


青柳家の北隣が石黒家です。
この石黒家も立派な門構えでした。



この薬医門は1809年(文化6年)に
建立されたものだそうです。

萱葺屋根の母家は、薬医門よりも古く
江戸中期頃に建てられたものだそうです。



母家は公開されています。
石黒家は最もお城に近い位置にあり、
それだけ格式の高い家柄でした。



母屋の座敷は広く立派なものでした。
石黒家の土蔵も堂々とした立派でした。



こうした建物を眺めていると
悠久の時の流れを感じます。


角館の武家屋敷の外れにあった枝垂桜です。



角館の枝垂桜の樹齢は300年を数え、
江戸時代から春には綺麗な景色が
見られたことでしょう。

この桜が咲く時期に角館を訪れてみたいです。

武家屋敷を後に、角館城に向かいました。




角館城 (小松山城)の登城記は
こちらです。





桧木内川畔



角館の町の西側を桧木内川が流れています。



桧木内川は秋田県北部の高崎森に源を発し、
大曲の近くで玉川に合流し、日本海に注ぐ川です。

この桧木内川は角館城の
天然の堀の役割を果たしていました。



桧木内川の向こうに聳える古城山に
角館城は築かれていました。

角館城 (小松山城)の登城記は
こちらです。


この桧木内川の築堤には、
約400本のソメイヨシノが植えられています。
春には桜を眺める為に、多くの観光客が訪れます。



この角館のソメイヨシノは国の
名勝に指定されているそうです。

この角館のソメイヨシノは、
是非一度訪れてみたいです。





天寧寺



桧木内川沿いから角館駅に
戻る途中に天寧寺がありました。





天寧寺の山門の様子です。



天寧寺は蘆名氏の菩提寺だったお寺です。
今から390年ほど前の寛永年間の初めに
会津の天寧寺から分かれて建立されたそうです。



堂々とした天寧寺の本堂です。


この天寧寺の裏に、葦名氏の墓所がありました。



ひっそりとした葦名氏の墓所です。

蘆名氏は1620年(元和6年)に会津から、
この角館に移っていますが、義勝・盛俊
そして、千鶴丸の三代で途絶えています。



蘆名盛俊が20歳で亡くなった後に、一歳の
千鶴丸が遺されたのですが、その2年後に
不慮の事故で亡くなってしまったそうです。

この墓所には、この三代の他に、その室と
蘆名義勝の兄・蘆名盛泰のお墓がありました。





田町武家屋敷



角館で武家屋敷と言えば、桧木内川に近い
古城山の南麓に広がる武家屋敷が有名ですが、
天寧寺の南側に、もう一つの武家屋敷があります。

それが田町武家屋敷です。

古城山に近い武家屋敷は蘆名家の家臣団のもので、
この田町武家屋敷は、1620年(元和6年)に蘆名氏が
途絶えた後に、角館を治めた佐竹氏直臣の今宮氏と
その家臣団が住居を構えたところです。



その田町武家屋敷の中で、
西宮家の土蔵が残っていました。



西宮家は明治から大正にかけて栄え、
今残る土蔵や母家もその当時のものだそうです。



この田町武家屋敷は、時間がなく、
ゆっくり散策する時間がありませんでした。
またの機会にゆっくり訪れてみたいと思います。



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