薩摩今和泉
Satsuma-Imaizumi

鹿児島県薩摩半島の先端に近い指宿から
7q北西の所に薩摩今和泉があります。

噴火湾に面して指宿枕崎線の薩摩今和泉駅もあり、
まとまった集落が存在しています。

指宿枕崎線の乗車記はこちらです:
http://shanehsmt.html.xdomain.jp/Train/Japan/JR/IbusukiMakurazaki.html

この薩摩今和泉は、薩摩藩の一門家の一つ
今和泉島津家があったところです。

今和泉島津家は鎌倉時代に島津家第四代当主・
島津忠宗の次男・忠氏が祖となります。
応永年間
(1394年-1427年) に今和泉島津家は途絶えてしまいますが、
300年後の1744年(延享元年)に再興されています。

まずは今和泉島津家の墓所を訪れました。
今和泉島津家の墓所は薩摩今和泉駅の
南東100m程の所にあります。


撮影: 2011年5月

ここには今和泉島津家六代の忠卿 (1742-1754) から
11代・忠冬
(1827-1859) までのお墓が残されています。


撮影: 2011年5月

上の写真は第六代・島津忠卿のお墓です。
また下の写真は左が第七代・島津忠温、
右は第八代・島津忠厚のお墓です。


撮影: 2011年5月

そして、下の写真が第十代・島津忠剛のお墓です。


撮影: 2011年5月

島津忠剛は幕末に第14代将軍・徳川家定の
御台所となった天璋院篤姫の父にあたります。

ちなみに篤姫が家定に嫁いだのは幕末の
1856年(安政3年)二十歳の時です。
家定はその僅か1年半後に死去しており、篤姫の
将軍の御台所としての期間はごく短いものでした。

篤姫は徳川家に嫁いだ後は徳川家に尽くしています。
幕府が倒れた後には徳川家の救済と慶喜公の
助命に尽力したそうです。

今和泉島津家の墓所を訪れた後、
篤姫が過ごした屋敷跡に向かいました。
その途中の薩摩今和泉の集落の様子です。


撮影: 2011年5月

焼酎工場の跡地を過ぎると、当時の
武家屋敷のような集落を歩いていきました。


撮影: 2011年5月

今和泉の静かな集落を抜け、海岸に出ました。
松林が続く海岸を北西に向かって歩いていきます。


撮影: 2011年5月

この松林の端に今和泉小学校があり、
ここが今和泉島津家の屋敷跡です。


撮影: 2011年5月

今和泉島津家が再興されたのが1744年(延享元年)。
今和泉島津家の当主はこの地に居城を構え、
この地域を治めていた事でしょう。

他藩では中世のこうした制度は一国一城令で崩れ、
各領主は、藩主の元に暮らすようになりましたが、
薩摩藩では外城制度として、領主が治めている地で
居を構える事が継続していたようです。


撮影: 2011年5月

今和泉島津家屋敷跡の海岸沿いに石垣が続いていました。
船着場への出入り口と思われる石段も残されていました。

天璋院篤姫は鹿児島市内で生まれたそうですが、
幼少期はここ薩摩今和泉で過ごしたそうです。
この石段を下って浜辺に出た事でしょう。

今和泉島津家屋敷跡から南に向かい、指宿枕崎線の
線路を越え、豊玉媛神社に向かいました。

指宿枕崎線の乗車記はこちらです:
http://shanehsmt.html.xdomain.jp/Train/Japan/JR/IbusukiMakurazaki.html

その途中、今和泉島津家隠居屋敷跡がありました。
現在は、個人の邸宅のようになっているようです。


撮影: 2011年5月

豊玉媛神社は豊玉姫命を祀る神社で、現在の
社殿は1695年(元禄8年)に建てられています。


撮影: 2011年5月

鳥居の脇に石の仁王像がありました。
1695年(元禄8年)に地元の侍衆などが
施主となって豊玉媛神社に奉納したものだそうです。


撮影: 2011年5月

素朴な石造でしたが、不思議な魅力があり、
惹きこまれるように眺めていました。


撮影: 2011年5月

豊玉媛神社の小さな社殿です。

この薩摩今和泉を訪れたのは2011年。
その3年前に大河ドラマ「篤姫」が放映され、その時に訪れた
観光客用に整備された案内板をあちらこちらで見かけました。

今、薩摩今和泉の集落はどのようになっているのか。
また機会があったら訪れてみたいものです。

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