杵築
Kitsuki, Japan
杵築は、大分県の別府湾の北東、
伊予灘に望む位置にある街です。
14世紀末に八坂川の河口部の
台山と呼ばれる高台に城が築かれ、
江戸時代には杵築藩3万2千石が置かれました。
当時は、模擬天守閣が建つ台山の西側に
杵築藩政庁の建物が建てられ、その更に
西側に城下町と町屋が広がっていました。
八坂川に沿って、南北に二つの丘が並び、
その上か武家屋敷、丘の間の細い谷に沿って
町屋が並んでいたようです。
こうした町の様子から杵築市では
サンドイッチ型城下町と謳っています。
杵築の散策マップです
この杵築に2008年12月に訪れました。
その時の様子を紹介します。
北台武家屋敷
杵築城に登城した後、杵築大橋から
杵築城の模擬天守閣を眺めた後に、
杵築の城下町に向かいました。
杵築城の登城記はこちらです。
台山の下を八坂川に沿って遡りました。
川岸から望む、杵築城天守閣の様子です。
この辺りに杵築藩舟入場の石碑が建っていました。
杵築藩主御座船の舟入場が東西100m、
南北50mの広さで築かれていたそうです。
舟入場からは更に西に向かい、
勘定場の坂を目指しました。
北台武家屋敷から杵築城に至る
大手道にあたるような坂で、
石畳の階段の両側に立派な白い
土塀が続き、当時の趣を伝えています。
石畳の階段を上っていくと、
古い土塀の通りが続いていました。
この辺りが北台家老丁で、
江戸時代には藩校や家老の
屋敷等が建っていた一画です。
通りの両側に長屋門や屋敷の門があり、
今でも刀を差した武士が表れてきそうです。
こちらは磯矢邸です。
藩主の休憩所だった御用屋敷の
「楽寿亭」として使われていたところです。
そしてこちらは杵築の藩校・学習館の
藩主御成門です。
藩校は第五代藩主・松平親賢公が
1785年(天明5年)に創立したもので、
現在では杵築小学校になっています。
藩校跡地には藩校模型学習館が建てられ、
ここには藩校の30分の1の模型が置かれています。
この藩校跡から次に向かったのは大原邸です。
ここも入り口の長屋門も趣がありました。
大原邸には、江戸時代には120石から
300石の家臣が住んでおり、一時は
藩主の御用屋敷にもなっていたそうです。
長屋門をくぐると目の前に
茅葺屋根の母屋がありました。
玄関に入母屋造の屋根が載り、
格式の高さを示しています。
玄関のソテツも高い格式の表れだそうです。
当時は、庶民がソテツを植えないように、
ソテツを植えると貧乏になるという話を
広めていたそうです。
大原邸の内部の様子です。
床の間の造りと(写真左)と弓天井(写真右)です。
弓天井は、室内から弓の練習をするために
天井の一部が凹ませてあります。
室内を見終わった後に、庭に出てみました。
茅葺の堂々とした母屋です。
御殿の建物を移築したという話も伝わるそうです。
屋根の葺き替えは30年毎に行われるそうです。
大原邸の庭は大きな池のある回遊式庭園です。
この庭は小堀遠州作と伝わっています。
驚いた事に、庭に雉がいました。
屋敷の南西角には土蔵がありました。
土蔵の脇の枯れ木の向こうに
短い冬の陽が沈むところでした。
大原邸でも、係の方が親切に案内して頂き、
あっという間に時が経ってしまった感じです。
大原邸のすぐ西側に、北台から谷間の
商人の町へと降りる酢屋の坂がありました。
酢屋の坂も古風な雰囲気が残され、
石垣の上に建つ大原邸の土蔵に
西日が当たり、とてもいい光景でした。
酢屋の坂の下にある綾部みそ屋です。
18世紀の終わり頃の建物だそうです。
この綾部みそ屋はかつては杵築を
代表する豪商だったそうです。
南台武家屋敷
酢屋の坂を下り、商人の町に降りましたが
酢屋の坂の向かいには志保屋の坂がありました。
志保屋の坂は見上げるような急坂でした。
今では舗装され自動車も通れますが、
当時の面影もまだ残しています。
坂の途中から、向かいの酢屋の坂を眺めました。
坂の上の大原邸や、麓の綾部みそ屋が
昔ながらの佇まいを残しています。
陽も沈んだ夕暮れの頃、寒くなりだしましたが
いつまでも眺めていたい景色でした。
坂を上った丘の上は家老丁でした。
ここも長屋門がありました。
写真左は中根邸です。
中根邸は、1862年(文久2年)に時の家老・中根源右衛門が
建てたもので、この家老丁に残る唯一の家老屋敷です。
あいにく、既に長屋門も閉まっていました。
このすぐ先には冠木門がありました。
一松邸へ通じる門です。
一松邸は台地が八坂川に臨むところにあり、
ここからの景色が良さそうと期待していました。
この一松邸着いたのが16:57。17時の閉門時間ギリギリで
丁度、係の人が帰り支度をしているところでした。
遅かったか、と思ったのですが、お願いしてみると
「佐多岬が綺麗に見えますよ」との事で有難く
ここからの景色を眺めさせて頂きました。
杵築城が遠くに見えています。
空も赤く染まり、この素晴らしい
景色を眺められて本当に幸運でした。
遠くに伊予灘を眺める一松邸です。
この一松邸は、昭和に入って建てられたもので
この邸宅の主・一松定吉氏は大臣を務めたそうです。
一松邸を辞し南台武家屋敷の本丁通りを目指しました。
日が陰ると、急に暗くなり、冷え込んできました。
どことなく霞んだ夕暮れの武家屋敷の景色でした。
この本丁を西に歩くと、寺町に突き当たります。
南台武家屋敷の西側を南北に走る通りに沿って
養徳寺、正覚寺、妙徳寺、安住寺そして
長昌寺と5つのお寺が並んでいます。
その寺町に教会がありました。
杵築カトリック教会です。
お寺のような門とその向こうの白壁の尖塔の
組み合わせがとっても絵になる光景でした。
もう既に薄暗くなりかかってきて
立ち寄らなかったのですが、
養徳寺は藩主菩提寺、長昌寺は
奥方菩提寺で、訪れたいお寺でした。
寺町から南台武家屋敷の裏丁に入ったところに
とても趣のあるギャラリー&カフェ「萩」がありました。
この「萩」のサイトはこちらです。
窓や門に明りが灯り、しっとりとした
佇まいを醸し出していました。
裏丁にも、長屋門を構えた
武家屋敷が続いていました。
杵築にこれ程の武家屋敷が残っているとは
予想していなかったので、とても
収穫ある街歩きになりました。
南台武家屋敷から商人の
町へと下る飴屋の坂です。
緩やかなカーブを描く飴屋の坂の石段は
当時の様子を今も残しているようでした。
飴屋の坂を下った所に伊能忠敬ゆかりの碑がありました。
伊能忠敬が日本全国の測量を行った際に
この杵築を訪れた際に宿泊した場所でしょうか。
杵築藩は幕末に麻田剛立という天文学者を輩出しています。
麻田剛立はケプラーの第三法則を独自に発見したり、
日食を予言したりしているそうです。
伊能忠敬は麻田剛立の弟子の高橋至時に天文学を、
学んだそうなのでその所縁もあったのでしょうか。