東京 / 板橋駅界隈
Itabashi Station in Tokyo

池袋から埼京線(正式名称:赤羽線)で一駅乗ると板橋駅です。
東京には板橋区という区があり、板橋駅は板橋区の代表駅かと
思うのですが、板橋区にはなく、北区に属しているようです。

赤羽線に乗る機会は殆どなく、板橋駅に乗り降りした事も
なかったのですが、板橋駅前に新選組隊長だった
近藤勇の墓があるというので、行ってみました。

池袋からの電車を板橋で下車しました。


撮影: 2012年5月

板橋駅東口です。
今から12年前は、どことなく鄙びた駅舎でした。
今は高層ビルが建ち、その様子は一変しています。


撮影: 2012年5月

上の写真は、板橋駅東口の駅前ですが、ここも
整備され、上の写真の雰囲気は残っていません。

この駅前広場の北側に、近藤勇の墓所がありました。


撮影: 2012年5月

近藤勇は幕末に京都で殺戮を繰り広げた新選組隊長でした。
1868年(慶応4年)1月に、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が
敗れると、新選組も江戸にもどり、2月には甲府に向かいます。

3月に勃発した甲州勝沼の戦でも敗れた新選組は
会津での立て直しを図ろうとしますが、その途中、
4月3日に近藤勇は千葉・流山で新政府軍に捕まります。

そして、近藤勇は1868年(慶応4年)5月17日に
板橋の処刑場で斬首に処せられています。
近藤勇は、武士になりたくて幕府の浪士組募集に応募し、
その結果新選組を結成したわけですが、最期は武士としての
切腹も許されなかったのは、どんな思いだったのでしょうか、

その奥にひっそりと近藤勇と土方歳三の供養碑がありました。


撮影: 2012年5月

この碑は1876年(明治9年)に、新選組の
二番組組長・永倉新八が建てたものです。

その横には、永倉新八のお墓もありました。


撮影: 2012年5月

永倉新八は、甲州勝沼の戦で敗れた後、近藤勇に
「家臣になれ」と言われたのを断り、斎藤一と共に
近藤勇、土方歳三と袂を分かちます。

明治に入ると北海道に渡り、1915年(大正4年)に
その生涯を終えています。

しばらく佇んでいると供養碑に陽が差し込んできました。


撮影: 2012年5月

供養碑の側面には数多くの名前が刻まれていました。
井上源三郎や原田左之助を始め、110名の
新選組隊士の名前が刻まれているそうです。

傍らには近藤勇の姿を描いた碑もありました。


撮影: 2011年6月

近藤勇は、板橋の刑場で斬首された後、胴体はこの地に葬られ
ましたが、首級は京都に送られ、三条河原に晒されたそうです。

晒された後の首級の行方は分かっていないということですが、
岡崎市の法蔵寺に葬られています。


本宿・法蔵寺山門

法蔵寺は、徳川家康が幼少の頃、手習いをしたお寺です。
家康にゆかりのあるお寺に葬られているとしたら、
近藤勇も本望なのでしょうか。

岡崎・法蔵寺の散策記は こちら です:
http://shanehashi.html.xdomain.jp/WagamachiOkazaki/Motojyuku.html

"東京"のTopに戻る

関東地方のページに戻る

Shane旅日記 日本編に戻る