池袋から埼京線(正式名称:赤羽線)で一駅乗ると板橋駅です。
東京には板橋区という区があり、板橋駅は板橋区の代表駅かと
思うのですが、板橋区にはなく、北区に属しているようです。
赤羽線に乗る機会は殆どなく、板橋駅に乗り降りした事も
なかったのですが、板橋駅前に新選組隊長だった
近藤勇の墓があるというので、行ってみました。
池袋からの電車を板橋で下車しました。
板橋駅東口です。
今から12年前は、どことなく鄙びた駅舎でした。
今は高層ビルが建ち、その様子は一変しています。
上の写真は、板橋駅東口の駅前ですが、ここも
整備され、上の写真の雰囲気は残っていません。
この駅前広場の北側に、近藤勇の墓所がありました。
近藤勇は幕末に京都で殺戮を繰り広げた新選組隊長でした。
1868年(慶応4年)1月に、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が
敗れると、新選組も江戸にもどり、2月には甲府に向かいます。
3月に勃発した甲州勝沼の戦でも敗れた新選組は
会津での立て直しを図ろうとしますが、その途中、
4月3日に近藤勇は千葉・流山で新政府軍に捕まります。
そして、近藤勇は1868年(慶応4年)5月17日に
板橋の処刑場で斬首に処せられています。
近藤勇は、武士になりたくて幕府の浪士組募集に応募し、
その結果新選組を結成したわけですが、最期は武士としての
切腹も許されなかったのは、どんな思いだったのでしょうか、
その奥にひっそりと近藤勇と土方歳三の供養碑がありました。
この碑は1876年(明治9年)に、新選組の
二番組組長・永倉新八が建てたものです。
その横には、永倉新八のお墓もありました。
永倉新八は、甲州勝沼の戦で敗れた後、近藤勇に
「家臣になれ」と言われたのを断り、斎藤一と共に
近藤勇、土方歳三と袂を分かちます。
明治に入ると北海道に渡り、1915年(大正4年)に
その生涯を終えています。
しばらく佇んでいると供養碑に陽が差し込んできました。
供養碑の側面には数多くの名前が刻まれていました。
井上源三郎や原田左之助を始め、110名の
新選組隊士の名前が刻まれているそうです。
傍らには近藤勇の姿を描いた碑もありました。
近藤勇は、板橋の刑場で斬首された後、胴体はこの地に葬られ
ましたが、首級は京都に送られ、三条河原に晒されたそうです。
晒された後の首級の行方は分かっていないということですが、
岡崎市の法蔵寺に葬られています。
法蔵寺は、徳川家康が幼少の頃、手習いをしたお寺です。
家康にゆかりのあるお寺に葬られているとしたら、
近藤勇も本望なのでしょうか。
岡崎・法蔵寺の散策記は こちら です:
"東京"のTopに戻る