高槻は大阪と京都のほぼ中間に位置する都市で、
市の真ん中を東西にJR東海道本線や
そんな高槻の街ですが、江戸時代にはここに
2010年に高槻城を訪れた際に高槻の
その時の様子を紹介します。
この時はJR高槻駅から南に向かい、阪急電鉄の
この辺りは高槻城の鬼門にあたり、
最も高槻市駅に近いところにある理安寺と
理安寺の創建の時代は判っていないそうですが、
また光松寺も創建の云われは伝わっていないそうですが
古い町並みの残る寺町の様子です。
本行寺の山門は、高槻城の移築門と伝わります。
この日は、この後、高槻城址の散策をしていました。
高槻城址公園の北にある高槻商工会館前には
キリシタン大名として知られる高山右近は、
記録によると1574年(天正2年)にこの地に
この高槻商工会議所会館から道路を隔てた
この野見神社の歴史は古く、宇多天皇
室町時代後期の享禄・天文年間には城主の
野見神社の境内には永井神社もありました。
調べてみると永井氏の祖先は、知多半島の野間で
野見神社の本殿です。
野見神社の北側に高槻現代劇場文化ホールがあります。
藤井竹外は初めて聞く名でしたが、江戸時代
高槻現代劇場文化ホールの北側には
高山右近の作った教会は、右近が船上城に
それだけでなく、教会の壁には
高山右近は、高槻を離れた後、船上城に入りますが
400年の時を経て、今なお高槻の地で教会に篤く
しかし、その一方で、神社やお寺には迫害を加え
高槻城を訪れた際に、ざっと見て回っただけの
高槻駅に戻る途中にも古い町家を見かけました。
ふいにこうした古い家を見つけると
高槻
Takatsuki, Japan
多くの人がこれらの大都市に通勤する、いわば
ベットタウンと呼ばれる郊外都市です。
阪急電鉄京都線、北部を名神高速道路
といった関西地区の主要な動脈が貫いています。
お城があり、城下町として栄えていました。
古い街の様子にも少し触れることが出来ました。
高槻市駅を過ぎ、高槻城址に近づくと、
お寺が集まる一角がありました。
撮影: 2010年10月
当時は寺町と呼ばれていました。
そのすぐ南にある光松寺です。
撮影: 2010年10月
1619年(元和5年)に高槻城主となった松平家信が
先婦人の菩提を弔う為に再興したそうです。
江戸時代初期に高槻城の拡張工事に伴って
城内から現在地に移転したそうです。
撮影: 2010年10月
この先に本行寺がありました。
撮影: 2010年10月
さすがに城門は堂々としていました。
高槻城は14世紀前半に築城されていますが、
戦国時代には高山右近が城主として12年間滞在し、
江戸時代に入ってからは大坂の陣の後に改修され
近代城郭へと変貌しています。
高槻城の石垣の石跡がありますが、その近くに
高山右近建立の教会跡の碑がありました。
撮影: 2010年10月
キリスト教の布教活動に努め、高槻は当時、
近畿におけるキリスト教布教の中心地だったそうです。
教会堂を建立したそうです。
西側に野見神社がありました。
(887年〜897年)の時代に疫病が流行り
牛頭天王を祀れば疫病が治まるとの
お告げで建立されたそうです。
駿入江駿河守、和田伊賀守らの信仰を集めた
そうですが、高山右近の時代には神社は廃され
その跡地にキリスト教の教会堂が建てられたそうです。
撮影: 2010年10月
永井神社は、江戸時代に高槻城の城主となった
永井氏とその初代藩主・永井直清公を祀った神社です。
源義家を殺害した長田氏で、家康の時に主君殺しに
繋がる姓という事で長田から永井に改姓したようです。
撮影: 2010年10月
永井神社には唐門もあったのですが、
訪れた時は修復中でした。
そこには藤井竹外邸跡の案内板がありました。
撮影: 2010年10月
末期の漢詩家で、この地で生まれたそうです。
教会がありました。
撮影: 2010年10月
移った後に壊されてしまっていますので、直接の
関係はないと思うのですが、高山右近の像や
彼を洗礼名で呼び、称える碑がありました。
撮影: 2010年10月
高山右近と思われる人の壁画もありました。
撮影: 2010年10月
その直後に秀吉からバテレン禁止令が出され、一旦
加賀藩に招かれますが、江戸時代に入り家康が
キリシタン追放令を出すと、マニラに移住したそうです。
扱われている右近は、日本でのキリスト教の
発展に貢献したし、人徳も篤かったのでしょう。
打ち壊しを行っていた事は記しておく必要があると思います。
高槻の街の散策ですが、思っていた以上に
収穫のあるものになりました。
撮影: 2010年10月
なんだか得した気分になります。
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