伏見・寺田屋
Fushimi Kyoto, Japan








伏見は今では京都市に編入されていますが、
太閤秀吉建立の伏見城や伏見稲荷、
それに伏見は銘酒でも知られ、
京都の文化とは少し趣が違うように感じられます。

徳川幕府倒幕の直接のきっかけとなる
鳥羽伏見の戦いが起こったのも、この伏見です。

そんな伏見の町の南側に、
維新の立役者坂本竜馬にちなむ
史跡「寺田屋」があります。


京阪電鉄の中書島駅に程近いところ、
宇治川の流れを引き込んだ堀のほとりに、
古い日本旅館が建っています。



この旅館が「寺田屋」です。
格子の窓枠や旅籠という文字の提灯が、
その古い歴史を物語っています。

寺田屋の界隈も堀に沿って、
古い酒蔵が立ち並んでいて、
なかなか雰囲気のある所でした。


明治時代になるまで、
大阪と京都の間の主要交通手段は、
淀川を行き交う船便だったようです。
大阪からの旅人は淀川を船で遡り、
この伏見で船を下りるケースが多く、
このあたりの川沿いには沢山の
船宿があったことと思います。

「寺田屋」もそんな船宿の一つで、
長崎で「亀山社中」
(後の海援隊) を興した
坂本竜馬も定宿にしていたのです。


幕末のこの当時(1865年頃)は、
長州藩と薩摩藩が倒幕の2大勢力と
なりつつあったのですが、
尊王攘夷を実行しようとした長州藩を
薩摩藩は京都から追い落とした為、
両藩はいわば犬猿の仲の状態でした。
8月18日の政変(文久3年、1863年)

この両藩を取り持ち、秘密軍事同盟
いわゆる薩長同盟を結ばせたのが、
坂本竜馬です。
慶応2年(1866年)のことでした。

土佐藩を脱藩していた一浪人が、
260年にわたる徳川幕府の倒幕の
直接の引き金となる働きをしたのは、
驚くばかりです。


この薩長同盟が締結された2日後、
この寺田屋に宿泊していた竜馬を、
幕府の捕吏と新撰組が襲ったのでした。
1866年 1月23日の深夜のことでした。

竜馬は深傷を負いながらも、
なんとか近くの薩摩藩邸に逃げ込み、
一命を取り留めたのだそうです。



これは寺田屋の一室に飾られた坂本竜馬の肖像画です。

竜馬が泊まった時にはいつもこの部屋が与えられ、
襲撃の時もこの部屋で、捕吏に立ち向かい、
裏の階段から逃げたのだそうです。

寺田屋の古い部屋を眺めながら、
130年ほど前の出来事を、
思い起していました。



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