田峰は三河山間部、寒狭川が
蛇行する谷の中腹にある集落です。
北設楽郡設楽町と新城市との
境にある小さな集落です。
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この田峰の小さな集落に、
名水が湧き出ることで知られる
田峰観音があります。
この地の豪族・菅沼定信が1470年(文明2年)に
田峯城を築城した際に田峯城鎮守の為に
十一面観世音を祀ったのが始まりだそうです。
田峰観音の境内です。
江戸時代に幕府領の木を切った疑いで
代官所の役人が検分にやって来る事になった際、
村人たちは田峰観音に、「例え村が三軒になっても
お祭りには必ず芝居を奉納します」と祈ったところ、
夏に雪が降り、役人が引き返したという逸話があるそうです。
それ以来、田峰観音では地元の人たちによる
奉納歌舞伎が上演されているそうです。
境内には1863年(文久3年)に建てられた
地狂言舞台があるそうです。
田峰神社から眺めた田峰の集落の様子です。
茶畑の向こうに見える
台形の山は鞍掛山です。
田峰観音から小さな集落を隔てた山の頂に
菅沼定信が築城した田峯城があります。
田峯城では1575年(天正3年の長篠・設楽原の戦いの際に
城主・菅原定忠と家臣らとの間の壮絶な争い起きています。
長篠・設楽原の戦いに武田方として出陣した
菅沼定忠が大敗の末、田峯城に帰城したところ、
家臣・今泉道善らの謀反に遭い田峯城に入城出来ずに
武田勝頼らとともに信濃に落ちて行ったそうです。
復讐に燃える菅原定忠は翌1576年(天正4年)に
田峯城に夜襲をかけ、謀反者の一族郎党96名を惨殺し、
今泉道善を生きながらに鋸引きの刑に処したそうです。
今泉道善が処刑された場所が
田峯城の近くに残っていました。
戦国時代に惨たらしい出来事が、
こののどかな田峰の地で起きたとは
俄かには信じられない思いです。
今泉道善、処刑地から
西の山々を眺めた様子です。
菅沼定忠は惨殺した96名のうち、
主だったものの首を晒したそうです。
その首塚跡が右端の山の裾野にあるそうです。
田峰の集落から山を下り、
寒狭川の谷間に下りていきました。
せせらぎが心を和ませ、
涼しい風が谷を渡っています。
鮎が釣れるのでしょうか、
多くの釣り人の姿を見かけます。
右の写真は夕陽に輝く寒狭川の様子です。
古い橋の雰囲気がとても良かったです。
寒狭川には「おしどりの里」があります。
おしどりは天敵の鷲や隼から身を守るため
とても警戒心が強いそうですが、
寒狭川が大きく蛇行しているところは
おしどりにとって天敵から身を守る
格好の場所になっているようです。
この場所を地元の人たちが守り、
毎年多くのおしどりが飛来するようになったそうです。
警戒心の強いおしどりを刺激しないよう、
観察にはシェルターの中に入り、
会話やフラッシュ撮影は禁止されています。
この「おしどりの里」を訪れた際には
多くの鴨が寒狭川に翼を休めていました。
その中に何羽かのおしどりも見かけました。
早朝に訪れると、おしどりを
見られるチャンスが多いそうです。
この「おしどりの里」で、鴨やおしどりを見ている時に
鳶か鷹が、鴨の群れに襲い掛かっていきました。
自然界の厳しさを目の当たりにしたように思いました。