岩村は、岐阜県南東部の東農地方にある集落です。
日本三大山城と言われる岩村城の麓に広がる城下町です。
岩村城の登城記はこちらです。
江戸時代には3万石の小藩でしたが、岩村の歴史は
古く、鎌倉時代の初期に加藤景廉が城を築き、
その後700年も、続いていたそうです。
岩村の城下町の佇まいは、今もその面影を残し、
重要伝統的建造物保存地区に指定されています。
2010年10月、明知鉄道に乗車し、
その岩村を訪れました。
明知鉄道の乗車記はこちらです。
岩村駅から岩村の城下町までは500m程離れています。
集落に辿り着く手前、立派な塚に気が付きました。
なんと、鴨長明の塚と言われているそうです。
方丈記で知られる鴨長明ですが、京都の下鴨神社の
禰宜の次男に生まれたものの、宮司にはなれず、
失意のうちに出家したとされています。
方丈記はこの時に記されたものですが、その後、
源実朝の和歌の師として鎌倉に向かったものの
うまくいかずに、加藤景廉の招きで岩村に逃げ、
この地で亡くなったそうです。
この先で、岩村の集落に入りました。
岩村の集落の西側は、江戸時代末期から発展し、
特に1903年(明治36年)に恵那と岩村を結ぶ
岩村電気軌道が開業すると、岩村の町は
大いに栄えたそうです。
通りには工房や家具屋さんなど、
趣のある建物が続いていました。
古い町並みを眺めながら岩村駅から
10分程歩くと、道が鍵型に曲がった
桝方に辿り着きました。
この桝形には、当時は下木戸があり、江戸時代には
ここは城下町の入り口だったのではないでしょうか。
桝形の脇に、祥雲寺のお堂があり、
その手前に高札が掲げられていました。
祥雲寺のお堂は、そうは見えないのですが
2001年に再建されたものだそうです。
枡形から先が江戸時代の集落です。
通りの右手に勝川邸がありました。
勝川家は江戸時代から豪商だった家です。
邸内には蔵も残って、当時の雰囲気が
そのままに残っていました。
1873年(明治6年)に岩村城が廃城となり、
多くの建物が払い下げられたそうですが、
勝川家の蔵もこの時払い下げられた
ものと言われています。
邸内には疎水が引き込まれていました。
この疎水は天正疎水と思います。
1575年(天正3年)に岩村に入城した
河尻秀隆が城下町整備の為に作ったもので、
居住地を貫いて流れるように設計されたそうです。
勝川邸では建物の内部も公開されていました。
2階の女子の部屋は開放的な造りで、
3方向がガラス窓の造りです。
この建物は大正時代に建てられたそうですが、
当時もハイカラな建物だった事でしょう。
2階からは岩村城址の山も見えていました。
勝川邸の先にも浅見家や
土佐屋という古い家があります。
浅見家は庄屋だった家で、松平家乗が
1601年(慶長6年)に、上州から移封した
際に、藩主とともに移って来たそうです。
こちらは岩村の観光協会の建物です。
これは、大正時代に建てられたものでしょうか?
この先に、もう一軒公開されている木村邸があります。
木村邸は、江戸時代の中期から後期にかけて
栄えた問屋で、藩の御用金を用立てし、
藩の危機を何度も救ったそうです。
木村家の祖先は、今の愛知県豊田市に
あった挙母藩の藩士だったそうです。
土蔵造りの建物がとても立派な屋敷でした。
恵那市の重要文化財に指定されているそうです。
木村家の南側に細い路地があり、
そこを右に折れると、なまこ壁の
建物がありました。
この奥に浄光寺というお寺があります。
1649年(慶安2年)に今の場所に移ったそうです。
土蔵造りの本堂は、1769年(明和6年)に
再建されたものです。
浄光寺を訪れた後、岩村城に向かいました。
その途中で見かけた造り酒屋さんです。
岩村城は、信長の叔母・おつやの方が
城主になった事でも知られています。
その女城主というお酒が売られていました。
2010年10月に訪れた際には、街中に
電信柱が立ち、電線が視界を遮っていましたが
その後、景観維持のために電線の地中化がされています。
見違えるようになった岩村の町を
いつかまた歩いてみたいです。