越前大野
Echizen Ohno, Japan








越前大野は、福井県東部に位置し、平成の大合併により
福井県の5分の一を占める面積があります。

越前大野の街は織田信長の命を受け、1575年(天正3年)に
一向一揆を平定した金森長近がこの地を与えられ際に、
越前大野城の城下に築いた街です。





今でも城下町の佇まいを残す街で
北陸の小京都と呼ばれているそうです。

この越前大野は、一乗谷にその居を構えた戦国大名・
朝倉義景が、1573年(天正元年)に織田信長軍の侵攻を
受けた際、ここまで逃げ落ち、自刃した地でもあり、
そのお墓もこの越前大野の地に残っています。


2010年7月11日、一乗谷の朝倉氏館跡を訪れた際、
越美北線の列車に乗って越前大野を訪れました。

越美北線の列車ダイヤもあって、十分な散策時間は取れませんでしたが
まずは、駅の西1km程のところにある越前大野城に向かいました。

越前大野城は、織田信長から越前国大野郡を与えられた
金森長近が1576年(天正4年)から築城を開始し、
5年後の1580年(天正8年)に完成しています。



標高249mの亀山の上に建てられていた天守は
1795年(寛政7年)に焼失してしまいましたが、
当時を彷彿とさせる姿で1968年(昭和43年)に
鉄筋コンクリートで造られています。

越前大野城の登城記はこちらです。


足早に越前大野城の散策を終え、朝倉義景の墓所に向かいました。
越前大野城の麓、三の丸の堀の東側に立派な武家屋敷がありました。



越前大野藩家老だった内山家住宅です。
幕末の頃、藩主・土井利忠に仕えた内山良林は
藩の財政立て直しの為、越前大野の産物を売る
大野屋を大阪に創設するのに貢献したそうです。



広い屋敷の中には蔵が2つも建っていました。
ここは中を見学できるのですが、時間がなく
残念ながら、外観を一瞥しただけでした。


越前大野城の南にある朝倉義景公のお墓を目指しました。
その途中、道端に屋根のついた水場がありました。



御清水(おしょうず)と呼ばれる、越前大野城
築城の際に設けられた生活用水です。

城主のお米を炊くのに用いられた為、
「御」の敬称を付けたそうです。


この御清水から更に南に行くと、住宅地の間に
木々が生い茂る一角がありました。



ここに朝倉義景の墓所がありました。





1573年(天正元年)に織田信長が近江に攻め込むと
朝倉義景は、これを迎え撃つべく一乗谷を出て
出陣しますが信長軍の前に敗れてしまいます。

人心を失っていた義景から、多くの将兵が離れ、一乗谷に
戻った際にはわずか10人程の側近しかいなかったそうです。

朝倉義景墓所の碑です。



一乗谷には出陣を拒んだ朝倉景鏡がおり、
義景に越前大野に逃げるように勧めます。

越前大野の賢松寺に入った義景ですが、
朝倉景鏡が裏切り、義景はここで自刃したのでした。
享年41歳でした。



義景の首は、京都で晒され、その後、
その髑髏に箔濃(はくだみ)を施されています。

かねて身の かかるべしとも 
思はずば今の命の 惜しくもあるらむ



義景のお墓の五輪の塔です。



朝倉義景のお墓は一乗谷の朝倉氏館にもありましたが
こちらのお墓には、義景の無念をより感じたような気がします。

一乗谷の朝倉氏館の様子はこちらです。




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