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宗谷本線の普通列車で稚内まで北上した翌日、
バスでオホーツク沿岸を辿りました。
行程は以下です:
稚内→浜頓別→北見枝幸→興部→紋別→遠軽
人家もまばらな地域なのですが、
バスは時折、主要道からはずれ、
昔の天北線の駅の跡に立ち寄りました。
乗り降りする人はもとより殆んどいません。
僕が天北線に乗ったのは、
今から20年程前の1979年の秋分の日。
今日と同じ様に稚内発の列車に乗ったのですが、
お墓参りに向かう人たちで、列車は混んでいました。
鉄道が廃止になり寂びれた駅の跡を見ると、
あの時、列車が混んでいたのが
信じられない思いです。
20km程南下した曲淵から東に向きを変え、
峠越えとなります。
寂しかった車窓が、いっそう寂しくなり、
周りには人家が全くありません。
そんなところに鉄道が敷かれていた
というのも、驚きなのですが・・・
久しぶりに人家が現れると鬼志別。
あまりに寂しい車窓だったので、
家を見るとなんだかホットする様な感じです。
やがて海に突き当たり、右折します。
久しぶりに見るオホーツク海。
この日は穏やかに凪いでいました。
ここからは左手にオホーツク海、
右手に原野という景色がしばらく続きます。
周囲には原生花園も広がり、
南稚内で乗り合わせたカップルは、
このあたりで下車しました。
原野の中にクッチャロ湖が
見えると、浜頓別です。
バスは新しいバスターミナルに到着しました。
そのバスターミナルの裏側は、
かつての国鉄天北線浜頓別駅の跡地で、
真っ赤に錆びたレールが所々に放置され、
昔の信号機も侘しく打ち捨てられていました。
下の写真は1979年当時の浜頓別駅です。
今では道路は完全舗装されていて、
バスは快適に岩肌の下を抜けて行きますが、
興浜北線は半径170mの急カーブで
この斜内山道の真下をすり抜け、
列車は最徐行で走り抜けていました。
斜内山道を過ぎると、
海岸段丘が続き、遠くに
北見枝幸の町も見えてきました。
自然のままの海岸線が続いていました。
浜頓別から50分程で北見枝幸着。
北見枝幸のバスターミナルも真新しい建物で、
道路は挟んだ向かいは広場になっていました。
ここが旧北見枝幸駅の跡の様で、
広場には碑も建っていました。
下の写真は1979年当時の北見枝幸駅。
周囲の様子はすっかり変わっていたので、
よく思い出せなかったのですが、
駅前の古びた旅館に見覚えがありました。
北見枝幸で30分ほどの待ち合わせで、
雄武行きのバスに乗り換えです。
北見枝幸 - 雄武間は約50km。
単調な海岸線が続き、時折小さな岬が現れます。
単調な車窓に時折居眠りしているうちに、
雄武に到着。
北見枝幸から1時間14分が
あっという間に過ぎてしまいました。
時刻は11時14分。
早朝に稚内を出て既に
5時間程経過しています。
古い駅舎や駅前広場が残っていますが、
車が数台停まっているだけで、
行き交う人も少なく
閑散とした雰囲気です。
開いていた食堂で遅めの昼食を摂り、
遠軽行きのバスに乗り込みました。
稚内から5つめのバスで、
オホーツク海沿岸バスの
旅の最終ランナーです。
オホーツク海を時折左に見ながら、
原生花園の中をバスは走ります。
7月半ばというのに、菜の花が咲き出していて、
黄色い絨毯の様な菜の花畑が車窓に現れました。
広々とした原野と針葉樹の森そして
牧草地が交互に現れるようになりました。
写真は、オホーツク海の潟湖・コムケ沼畔の景色。
針葉樹の向うにコムケ沼が広がっていました。
しばらくして湧別の町に入りました。
いかにも最果てといった
佇まい中をバスは走りました。
湧別は小さい街なのですが、
街の中心の中湧別駅は往時は
紋別・遠軽・網走への接続駅でした。
中湧別からはこの他にも海岸寄りの集落への
短い路線もあって、街の規模の割りには
賑った駅でした。
僕も網走から能取湖、サロマ湖畔を
巡る湧網線に乗った時に
この湧別の街に泊った事があります。
その時は冬だったのですが、
湧別で一夜を過している間に
猛吹雪となり翌日に昼過ぎまで列車が動かず
旅館に缶詰になったことがありました。
そんな湧別の町なのですが
中湧別駅の跡も定かではなく、
どこかに見覚えのある建物はないかと探すうちに、
小さな集落は過ぎ去ってしまいました。
湧別からオホーツク海を離れ、
広々とした原野を走り、
遠軽の町を目指しました。
そして午後4時過ぎ、
遠軽駅にバスが着きました。
稚内から約260km、
10時間近いバスの旅。
オホーツク海の景色を
堪能出来た旅でした。
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